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番外編「姉が結婚した日、母の思い出」
姉の翠(みどり)が、彼氏を連れてきた日はよく覚えている。
眼鏡をかけた、童顔のあやしげな男だというのが、第一印象。
それから、食わせ物。腹黒いと、印象が降り積もっていった。
(お姉さまは、ファザコンなんだ……。
お父さまがもう一人いるみたいだ)
短大の合コンで知り合ったという彼は、姉より4つ上の23歳。
医大の4年生という話だった。よく姉にノロケ話で聞いていた。
眼鏡をかけた彼は、柔和な笑みを浮かべて、手を差し伸べた。
掴むと、その瞳を細めた。
「やぁ、初めまして、君が青? 僕は葛井陽(くずいよう)だよ。
翠さんとは親しくさせていただいいます」
「初めまして、陽お兄さん、藤城青です」
初対面なのに、いきなり頭を撫でてきた。
隣にいる姉は、ご満悦といった風情だ。
(呼び捨てすんなよ! )
「黒髪に、名前と同じ色の目……噂通りの愛くるしさだ」
「男に愛くるしいとか、やめてください。
気持ち悪いじゃないですか」
目の色を指摘されるのが、嫌で、たまらなかった。
なんで、母親からの血で六分の一
異国の血が混ざってるだけなのに、
目の色が、日本人のいわゆる茶色じゃないんだろう。
(小学校を卒業したら、お父さまに、相談しよう。
髪の色を黒く染めてもらったように)
「抗うから、からかわれるのよ。くすっ」
姉は、にこにこと微笑んでいる。
「お姉さま、彼氏をわざわざ紹介してくれてありがとうございます。末永くお幸せに」
立ち去ろうとした俺は、姉と彼氏に腕を掴まれた。
「……今日は三人でお出かけしましょ。
どこがいいかな!」
「……二人で行ってよ。邪魔者になりたくないし」
「お家で一人ぼっちは、寂しいだろ。
たまには、姉孝行と思って出かけよう」
この強引さ……むかつく。
初対面にもかかわらず馴れ馴れしく接してきた葛井陽。
姉と似合いすぎていて笑えるくらいだった。
この男と長い付き合いになるとはその日は思わなかったのだけれど。
その日はネズミが仲間を引き連れて歌い踊る夢の国に連行され、散々もてあそばれた。
一生、恨んでやる!と誓ったが、結局、恨みは果たせないままだ。
それから姉は二年後、陽と結婚することになった。
今日は姉の結婚式前夜だ。
少し感慨深く思いながらピアノを弾いていたら、当の本人が部屋の扉を開けた。
ノックもなしに押し入ってくる無礼者である。
「……お姉様」
「あら。あなたが、そう呼ぶなんて珍しい」
「最後くらい言ってやろうかなと」
絶対、クソ生意気とか思われてそうだ。
13歳違いの姉は21歳。父似だがとても綺麗な人だった。
「……可愛い顔して可愛くない。ちょっと、お姉様が結婚するからって拗ねるんじゃないの」
「拗ねるなんてまさか。
この家にもやっと静寂と平穏に満ちた日々が、訪れるんだなあって、しみじみしてるよ」
目を逸らし鍵盤に向かう。やっぱり、寂しいかもしれない。
この三年、家を出て独り暮しをしていた姉とは会っていなかったけれど、
一番近い肉親の門出なのだ。あ、やばい。鼻がツンとする。
「静寂と平穏とか、子供(ガキ)が、使うんじゃないわ……」
「……姉さん、陽さんに幸せにしてもらってね。
お父様と仲良くこれからやっていくから、心配になっても帰って来ないようにして」
「……うん、幸せになる」
ずけずけと返したが、分かってくれたと思う。
ふいに抱きしめられて頬を寄せられる。
相手も寂しいのだろうとそのままにしていたら、調子に乗って頭を撫でてきた。
「撫でるな!」
ぐしゃぐしゃになで回され、セットした髪が乱れる。
少し茶色を帯びている髪を染めてくれたのも姉だったっけ。
「寂しくなったら、遊びに来なさい……ね? 運転手さんに頼めばいいし」
藤城家には男性の専属運転手が、いる。現在中学生の長女も将来、
運転手になると口にしているらしい。
「……寂しくなんてない」
ぐすっ。涙が頬を流れてしまう。
「まぁ、たまには帰ってくるし。小さい弟が心配なんだもの」
にこっ、と笑われ、首をかしげる。
忌々しいことに顔が赤いような気がする。
「ウエディングドレス、楽しみにしてるから」
「……くっ、やっぱり生意気」
思ったままを言ったのに姉は、そう言ってまた髪をなで回してきた。
「明日ね。おやすみなさい、青」
「おやすみ……お姉様」
姉はもう一度青の頭を撫でて部屋を出た。
姉が結婚して一年が経った。
静かな日常は平穏で波風も立たず少し退屈だ。
学校の宿題も終わらせたので、
気分転換に外に出ようかと考えていたところ、父親が声をかけてきた。
白衣姿だから、昼休憩で戻ってきたのだろう。
「……青、元気がないけどどうしたの?」
「これが俺の普通です」
かまってくるのが、少しうざい。
姉が、嫁入りして、寂しがっているとでも思ったのだろうか。
その辺の甘えたくる子供と一緒にしないでほしいものだ。
「素直に甘えていいんだよ。家族だろう」
「……っ、は、はい」
思わず口ごもった。
(なんで、どいつもこいつも、すぐ頭を撫でたがるんだ!)
父親の大きな手はあたたかい。
家庭教師もすぐ撫でるし、俺の頭を見ると皆が手を伸ばしてくる。
つい先日は、担任まで撫でてきた。
「青の頭が撫でやすい位置にあるから、
撫でたくなるんだよ」
「幼児じゃありません」
「……まだ小三だろ。変わらないさ」
「……お父様、お食事に戻られたのなら、
早くダイニングキッチンに行かれては? 俺はもう食べたので、散歩に行きます」
「車と悪い人には気をつけるんだよ。
何かあったら、病院に来なさい。近いんだから」
「……分かりました」
うっとうしいことこの上なかったが、収集つかなくなるので、抵抗はやめておいた。
「青は、お母さんが欲しいかい?」
「何言って……」
「もう、来年で五年が経つしね……
新しい人を迎えても紫も怒らないだろう」
「お父様が、いいのなら……俺は構いません。でも、お母様を忘れてないのに、
新しい人を迎えるなんて、その人に失礼です」
「……そうきたか」
「それに、お母さんって呼ぶことは、できても俺のお母様は
藤城紫(とうじょうゆかり)だけですから」
父親は、本気ではないと思う。
俺はあの時五歳の誕生日を迎えてもおらず、
大人の心の機微を深く理解することは、
できなかった。
父が姉や俺を寂しがらせないよう精一杯、父と母の役割をこなそうとしたことは、
何となくわかってきた。
「青には、たくさん色んなことを背負わせてしまうかも
しれないけど、一人ぼっちにはさせないからね……」
頭を撫でられた。とても柔らかいしぐさなので抵抗はできない。
「冗談だよ。気にしなくていいからね。
私の妻は翠(みどり)と青の母親でもある紫だけだよ……永遠に」
「お父様には俺がいます。寂しがらないでくださいね。頼りない子供ですけど」
「頼りになりすぎだよ」
「……行ってきます」
「行っておいで、青」
扉を開けて、玄関から外に出た。
ああ……今日も日差しが高い。
梅雨なんだから、さっさと降ればいいのに。
すべてを包み隠してくれる雨は、昔から嫌いじゃない。
あの日、泣かなかった俺を見て、
父親と姉は泣いた。
我慢しているのかと思ったらしい。
ただ、泣けなかっただけだ。
だって、泣いたらいなくなってしまうことを実感してしまう。
そういえば、俺の代わりに、空が泣いてくれたっけ。
お母様がいなくなったのも
四年も前の話なんだな。
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