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終わりと始まり
「少しは落ち着いたか?」
雪哉の涙が止まった頃合いを見計らって尋ねる。子供のようにすがって泣いてしまったのが恥ずかしくて、顔を俯けて小さくこくりと頭を縦に振った。
「すみません、せっかくの浴衣が……」
「鼻水でべとべと、だな」
「なっ!? 違います! 鼻水なんか付けてませんっ」
そんなつもりは無かったので、浴衣を凝視しながら慌てて身体を離し鼻をごしごし擦った。
「ハハッ冗談だっつーの」
ピンと軽くおでこを弾かれ、鈍い痛みに顔に皺がよる。
「何があった? なんて聞くのは、きっと野暮なんだろうな……」
「……」
溜息交じりにそう言われて雪哉は返答に困ってしまった。この間、この話題には触れてほしくないと言ったばかりだが、巻き込んでしまった以上話さなければ失礼に当たるような気もする。
迷っていると、再びぎゅっと強く抱きしめられた。
先程とは違う、包み込むような抱擁に戸惑いつつも、そっとその広い胸に頬を寄せた。
トクントクンと規則正しい鼓動が耳に心地良い。
橘はそれ以上何も聞いてこなかったが、その沈黙が今は逆に有難かった。
どの位の間、そうしていただろうか。
遠くから微かに祭囃子が聴こえてきて、ふと現実に引き戻される。
いくら人気が無いからとはいえ、いつまでも抱き合っているわけにはいかない。
「あの、僕はもう大丈夫なので、離して貰えませんか? そろそろ、花火大会始まるころだし、みんなの所に戻らないと……」
「……それも、そうだな……」
橘はほんの一瞬だけ不満そうな顔をした。だがすぐにいつもの表情へと戻り名残惜しそうに身体を離すと、ふぅ、と息を吐いて立ち上がる。
その瞬間――。
口笛じみた音と共に漆黒の空へと向かって一筋の煙が飛びあがる。
あ! と思った時にはよく晴れた夜空を覆いつくす様に巨大な菊型の花火が炸裂していた。
手を伸ばせば届きそうなほどの近さだった。火の玉が一瞬のうちに視野いっぱいにまで広がっていく。
キラキラとした火の粉が今にも顔面に降りかかってきそうだった。
横を見ると、橘が目を大きく開けて空を見上げていた。
「あーぁ。始まっちまった。でも、案外ここって特等席じゃね?」
赤や緑、青と次々に空へと昇っていく花火を眺め、橘が言った。
確かに、此処には自分たち以外に誰もいないし雑木林以外に遮るものは何もない。
幻のように鮮やかな花火が夜空一面に咲いて、残滓を煌めかせながら時間を掛けて消えていく。
自然に沸き起こった歓声を待たずに今度は巨大な柳のような花火が夜空に垂れ、無数の火花が捻じれながら落ちて来る。
色とりどりの光の乱舞に、思わず息をするのを忘れてしまった。
「うわ、凄い……綺麗ですね……」
「――あぁ、ほんとに……」
するりと伸びてきた指先が雪哉の頬に触れた。ハッとして横を見ると橘はもう空を見上げてはいなかった。真っすぐに自分の方を見ていてその視線にドキリとなる。
「本当に綺麗だ――」
一瞬、何が起こったのかわからなかった。橘の指が顎にかかった。と思う間もなく唇に柔らかい感触が……。
「え……っ」
ひと際大きな爆音と巨大な緑色の菊の華をバックに一度離れた唇がまた触れる。今度は先程より深くて長いキスだった。
舌先で唇の隙間から中へと侵入してくる。
驚きで硬直したままの雪哉の口内をゆっくりと味わうようになぞり、歯列を割って入ってくると、奥で縮こまるように引っ込められていた雪哉のものと絡み合う。 しっとりと唇を吸われて腰がゾクリとした。
何がどうなっているのか理解が追い付かないで固まっていると、突然バッと勢いよく橘が離れていった。
「……っ悪い、つい……」
「つい、って……」
口元を手で覆って視線を逸らす橘が首筋から耳まで赤く染まってしまっている。そんな姿を見たら何故かこっちまで頬が熱くなってしまう。
「なんで、先輩が赤くなるんですか」
「うっせ! ほっとけ!」
そう言ってふいとそっぽを向いた橘の耳はやはり赤い。 この赤さは花火のせいだけではない筈だ。
「大久保たちが探してるから、先行くぞ」
気まずい雰囲気に耐えかねたのか橘が立ち上がる。逃げるように去っていく足音を聞きながら雪哉はずるずると境内の石段に身体を凭れさせた。
つられて赤くなってしまった頬が熱い。なんだか胸がドキドキする。
「なんなんだよ……ほんと」
見上げた先には大きなハートマークの花火が視界いっぱいに広がっていた。まさに、晴天の霹靂な出来事だった。
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