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葛藤 ②

 夏のインターハイ、雪哉達のチームは8位だった。ウインターカップに進むにはまず、上位8チームでトーナメントを行い予選を勝ち抜き決勝リーグまで駒を進めなければならない。  そして、決勝リーグに勝った上位2チームが高校生最後にして最大の大会へと進むことが出来るのだ――。 「……ふぅ」  風呂上り、まだ濡れた髪にタオルを掛けたまま膝を抱えてぼんやりと自室の天井を仰ぎ見る。  明日からいよいよ地区大会予選が始まる。早く床に就かなければいけないのに、気分が高揚していて中々寝付けそうにない。  なんとはなしに、手元のスマホをタップしてみる。特に意味は無かったが要するに手持無沙汰だったのだ。  そう言えばもう橘は寝てしまっただろうか?   ふと、そんな事を考えていると、いきなり手元のスマホが震えだしてビクゥッと身体が大きく跳ねた。  ――橘先輩――  薄目を開けてディスプレイに映った文字を見て、思わずごくりと息を呑む。   戸惑いながら、通話ボタンをタップして耳にそっと押し当てる。 「遅せぇぞ。3コール以内に出ろや」 「ふは、ちょっとそれ横暴過ぎません?」  怒っているような声色では無かったが、あまりな言い草に失笑が洩れる。何か用かと思って尋ねてみたが、特に用事はないらしかった。  言外に声が聞きたかったのだと言われた気がして、何処となくくすぐったいような、むず痒いようなそんな気持にさせられる。  だが、不思議と嫌ではなくむしろ耳に馴染んだその声に心地よさすら覚え、しばし橘の雑談に付き合ってやることにした。 『そういや、お前を襲ったアイツと、飛田達さ、3週間の自宅謹慎だと。飛田達は3年だからこのまま強制引退って事になるな……ほんっと馬鹿な奴らだよ。今まで頑張って来たのに……』 「へぇ……」  3週間の自宅謹慎……。罪の重さ的に軽すぎるような気もしたが、学校の決定なら仕方がないのだろう。 幸い、大した傷では無かったが、しばらくは殴られた箇所がズキズキ痛んだし、飛田達から受けた嫌がらせのせいで未だにロッカーを開けるとき心臓がバクバクして不安感に襲われることがある。   一連の事件は悪質な虐めであると判断され、生徒指導室から呼び出されたり、事情聴取のような事をされて居心地の悪い思いを沢山した。 勿論、先生たちは自分を守るために動こうとしてくれているのはわかっているけれど、傷口を他人に見せる行為は時に精神的な苦痛を伴う。  自分には一生縁のない場所だと思っていたのにあの男達のせいでとんでもない目に遭った。  幸い、増田が校長に頭を下げ、必死に掛け合ってくれたお陰で通常どうり大会に参加できる事になったから良かったものの、一歩間違えれば部停になっていたかもしれない。そうならなくて、本当に良かった。  それからしばらく、たわいもない話をして日付が代わるころ、急に橘が静かに口を閉ざした。 「先輩?』 『……なぁ、萩原……』 「はい?」 『あと何回、……一緒にバスケ出来るんだろうな……』  ふ、と電話口の空気が変わった。切なげな声色に不安や、怯え、葛藤など色々な感情が混ざり合っているような気がする。  明日(と言っても今日だが)の事でやはり緊張しているのだろうか。  無理もないか、万年2回戦敗退のウチが地区予選に残るのはこれが初めてだと聞く。毎日遅くまで残って自主練を続けてきた橘だからこそ、緊張もひとしおだろう。  だが、それ以外の感情も込められている気がして雪哉もぐっと押し黙った。 「――そう、ですね……」  ふと、窓の外に視線を移した。まだまだ白い息が出るほど寒くはない、だが、見上げた夜空に見える月は寒々としていてとても澄んで見える。  きっと明日は晴れるんだろう。  明日の試合の後、自分たちの心も今夜のように一点の曇りもなく澄んでいてくれたらいいのに。 「先の事なんてわからないけど、目の前の一試合、一試合に全力でぶつかっていくだけですよ」 『ん、正論だな。あー……。お前の声聞いたらなんか落ち着いたわ。サンキュ』 「なんですか、それ」  フっと僅かに笑う気配がして、ベッドのスプリングが軋む音が耳に響く。 「じゃぁ、そろそろ切りますよ」 『あ~…待て待て。あと少し……もう少しだけ、お前の声、聞いていてもいいか? 眠れないんだよ。ちょっと付き合え』 「……っ」  言葉は横暴な事を言っているのに、甘えの混じった声にそんな事を言われたら、電話が切りにくくなってしまう。  困った、明日の為に雪哉だって早く寝ないといけないのに……。いつもの橘らしくない発言に調子が狂わされる。  しかもそれが迷惑とかではなく、むしろ嬉しいと思ってしまう自分が居て、戸惑ってしまう。 「僕は睡眠導入剤ですか……眠くなったら、切りますから、ね」  そう言いながら、自分もベッドに寝転がり目を閉じて耳を澄ませる。こうするとすぐ隣に橘が居るような錯覚を起こして何だか胸がドキドキした。 雪哉のそんな様子を穏やかな月の光だけが優しくそっと見つめていた。

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