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もう恋なんてしない※橘SIDE
「私ね、他に好きな人が出来たの。だから、別れて欲しいんだけど」
大学での講義も終わり、駅まで歩いているときに、恋人の沙希 が突然言った。橘千澄の足が止まる。
肌に感じる風も少しずつ涼しさを感じるようになった、9月の半ばのことだ。
「笑えねぇ冗談だな」
全く寝耳に水の言葉に思わず眉間に皺が寄り、数歩先を行く彼女の背中を睨みつけた。
「俺の何が気に入らないんだ」
数ヶ月前、彼女の方から告白してきたのがつき合い始めたきっかけで、それ以来彼女の為だけに時間を割いてきたつもりだ。
喧嘩らしい喧嘩はしたこと無かったし、小さな我が儘なら大抵は目をつぶってきた。
遊園地や海、花火大会など、彼女が行きたいと言った場所、やりたい事、ほとんど叶えて自分が出来ることをしてきたはずなのに。
「だって千澄君、全然私の事見てくれてないし……」
「は? 意味わかんねぇ」
彼女の言っている意味が理解できずに益々表情が険しくなってしまう。
此処でキレてしまってはいけないと思いつつ、突然の別れ話に苛立ちを隠しきれない。
「千澄君の目に映ってるの、私じゃないでしょ? 一緒にいるとき、いつも違う人のことを考えてる」
「……っ」
忘れられない人がいるんでしょう?
くるりと振り返った彼女に見上げられ、ギクリと体が強ばった。
返す言葉がすぐに思いつかず黙っていると、それを肯定と取ったのか彼女は小さく息を吐きゆっくりと地面に視線を落とした。
「私、我が儘だから。好きになった人には自分だけ見てて欲しいの……」
切なげにそう言って俯く彼女の姿に、たった今まで感じていた苛立ちは何処か陰を潜めてしまう。
飛び抜けて美人とまでは行かないが、そこそこ可愛く誠実で穏やかな娘だ。
この話を切り出すのに、どれほど悩んだのだろう?
彼女の気持ちに気付いてやれなかったのは完璧に自分のミスだ。
「……そうかよ。わかった……」
彼女はハッとしたように顔を上げ、一瞬驚いたような表情をしたのち複雑な笑顔を作って見せた。
引き留めて欲しい気持ちと、すんなりと事が運んでホッとしているような複雑な表情に胸が痛む。
「ありがとう。ごめんね? 千澄君も未練があるなら、好きな人に告白しちゃえばいいのに……」
いつもの別れ道、最後に一度だけ手をぎゅっと握り、彼女は手を振って帰って行った。
「うるせーよ。余計な世話だっつーの……」
そう簡単に告白出来たら苦労はしていない。
「俺には俺の事情ってもんがあるんだよ」
既に小さくなりつつある彼女の後ろ姿にそう呟いて、思わず深い溜息が洩れた。
「くそっ……」
すっきりしない気分のまま、ポケットに手を突っ込んで俯いてしまいそうになるのを堪え空を見上げる。
秋の日は釣瓶落としとはよく言ったもので、頭上には早くも丸い月が顔を覗かせていた。
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