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もう恋なんてしない ※雪哉SIDE 2

 ふいに頬に、冷たい雫が伝った。視線を上げると、暗い空から糸のような雨が降り注いでいた。それはみるみるうちに濃くなって雪哉の全身を包み込んでいく。  コンビニにでも行って傘でも買おうと思ったけれど、練習着のまま飛びだして来てしまったためにお金なんて持っている筈もない。  その事実に気が付いて、一人自嘲気味な乾いた笑いが洩れた。 「何やってんだろ僕……馬鹿みたいだ……」  雨が降ってくれて助かった。こんなみっともない姿、誰にも見せられない。  ずっと、会いたいと思ってた。今度会ったら、卒業式の日に言えなかった気持ちを伝えたいと。  両思いなんて最初から期待はしていない。  冗談っぽく言って、笑い飛ばされて終わり。それでもいい。  ただ、自分の気持ちを知って貰いたかった。  でも、橘が自分のことをどう思っていたかまでは、考えたこと無かった。  まさか会いたくない程、嫌われていたなんて。  もしかして、今まで来なかったのは橘がリア充だから。では、なくて自分が居たからーー?  一つの答えに行き着いて、無性に悲しくなってきた。  胸が押しつぶされそうになり、息苦しくて震える唇を開く。 「なんだ……そっか……告る前にフられるとか……最悪だな」  こみ上げる思いは涙となって、今にも溢れだしそうだった。必死に堪えて、それでも堪えきれなさそうで、拳で目を押さえつけた。 「ハハッ、ダッサ……」  乾いた笑いは降りしきる雨の中に溶けていき、益々自分を惨めな思いにさせる。  切なくて、苦しくて、胸が引き絞られるように痛んだ。いっそ、声を上げて泣いてしまいたいくらいだ。  唇を噛みしめ耐えていると、不意に目元を覆っていた腕を、強い力で掴まれた。乱暴に引かれて、腕が外れる。  音を立てて降る雨の中、目の前に橘が立っていた。 「橘、先輩? なんで……?」  これは都合のいい夢だろうか。  呆然とする雪哉の腕を掴んだまま、橘は顔をしかめた。 「んなとこにいやがった。何処まで走りにいってんだお前はっ!」  そのまま腕の中に抱き込まれる。反射的に逃れようとする身体を逃がすまいと強い力で抱きしめられ、橘の温もりと共に懐かしい彼の香りが胸に染み込んでくる。 「たく、こんなに冷えて……」  橘は雪哉の肩を抱いたまま踵を返して歩き始めた。 「あ、あのっ、何処に……行くんですか?」  質問に対しての返事は無く、偶然通りかかったタクシーを捕まえると、半ば強引にその中へと押し込まれた。  わけもわからぬまま振り向くと、後へ続くように乗り込んできた橘が運転手に行き先を告げタクシーがゆっくりと動き出す。 「先輩、どうして……?」  自分の事が嫌いならわざわざ追いかけて来なくても、放っておいてくれたらよかったのに。  わざわざタクシーまで使って,一体何処へ連れて行こうとしているのだろうか。  雪哉の質問に、やはり橘は答えない。橘の腕が雪哉を力強く引き寄せ身体が密着する。湿ったジャージ越しに橘の体温が伝わって来て、こんな状況だと言うのにドキドキと胸が高鳴ってしまっている自分に気付き唇をきゅっと強く噛んだ。  橘は何も言わず、ずっと怖い顔をしている。それなのに腰に絡んだ指先が僅かに震えていて、雪哉は困惑を隠しきれなかった。    重苦しい沈黙の中、ほどなくしてタクシーが止まったのは単身者向けの学生用アパートだった。 「降りるぞ」  築40年位は経っていそうなアパートの一室に半ば強引に連れ込まれ、あれよあれよという間にバスルームに押し込まれた。  濡れたシャツを着たままいきなりシャワーを浴びせられ、頬や腕に当たる湯がひどく熱くて反射的に逃げようとするが許して貰えず、強引に湯を掛けられる。 「たく、こんなに濡れて……風邪ひいたらシャレになんねぇだろうが。キャプテンのお前がそんなんでどうすんだ」 「すみません……」  早く脱げと急かされたが、なかなか上手く指が動いてくれない。  俯いて佇んだままの雪哉が動く気配がないとわかると、橘は苛立たしげにチッと小さく舌打ちをして、シャワーを壁に掛け、半ば強引にシャツを頭から引き抜いた。 「……取り敢えず、話は後だ。しっかり温まるまで出てくるんじゃねぇぞ」  それだけ言うと、橘は浴室から出ていってしまう。  一体何を話すことがあるんだろう?  顔も見たくないほど嫌いなら、あのままほっといてくれたら良かったのに。橘の優しさが今は辛い。シャワーで身体が温まるにつれ涙腺までが緩んでしまったようでじわりと目頭が熱くなってくる。  壁に背を付けたまま、こみ上げてくる涙を誤魔化すように顔を上げ、シャワーを頭から被る。  雨で冷え切っていた身体がようやく温まり、あんなに熱く感じていた湯が心地よく感じるようになってきた頃、改めて今の状況を考えてみた。  此処は恐らく橘の家だろう。仲のいい鈴木や大久保でさえ数回しか来たことが無いと言っていた。  いつかは噂の部屋を覗いてみたいと思っていたけれど、まさかこんな形でお邪魔する事になるなんて。  ーーここに噂の彼女も出入りしたりしているのだろうか?  美人な彼女と二人きりで、甘い一時を過ごしたこともあるかもしれない。  きっと、この狭い浴室にも二人で……。  ふと、そんな事にまで考えが及び無性に虚しくなってきた。  自分は何を考えているんだ。橘の家なのだから彼が誰とどう過ごそうが関係ないじゃないか。  最初から適う筈のない相手に嫉妬するなんてみっともないことこの上ない。  自嘲的な乾いた笑いが洩れて、鼻の奥がつんと痛くなった。  いつまでもくよくよしてたって仕方がない。風呂から上がったら、橘の口からはっきり言って貰わなければいけない。そして自分の気持ちに決着をつけよう。  これ以上傷付かない為にも、今ハッキリと言って貰わないといけない。  心の中でそう決意して、雪哉はシャワーのコックに指をかけた。

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