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番外編⑤ 甘やかしたい橘と甘えるのに慣れていない雪哉の話1

 無機質な天井を眺めていると、ピピッと言う電子音が静かな室内に鳴り響く。  脇に挟んだそれを取り出し、確認すると『37.5』の文字。  高熱でもなく、微熱でもないなんとも微妙な数値に雪哉は思わず深い溜息を洩らした。  ウインターカップ予選を控えたこの大事な時期に熱を出すなんて最悪以外の何物でもない。  自己管理が鳴ってないんだよ。お前は! などと言って、笑顔でキレている橘の顔が浮かぶようだ。  なんで熱なんて出たんだ。保健室の先生からは夜更かしのし過ぎじゃないかとか、疲れが溜まっているんだろう。などと色々言われてしまったけれど、その位で身体を壊すようなヤワでは無いと思っている。  自分の不甲斐なさが情けなくて、腹が立つ。  このくらいならなんとかなるんじゃないだろうか? 少し身体が怠いだけで動けないわけでは無いし、気合いでなんとか――。  そんな事を考え起き上がろうとした正にその時。  静かだった保健室の扉ががらりと開いて、見慣れた薄茶色の頭が入ってくるのが見えた。 「……っ」  なんで、橘がここに? 今は授業中の筈じゃないか。  何処か怪我をしたわけでは無さそうだ。 と、言うことは発熱か? いや、その割には全然怠そうではないし見た目もぴんぴんしている。  ――じゃぁ、なんで?  不思議に思っていると、いきなり橘がこちらを振り返ってばっちり目が合ってしまった。  やばい! と思って咄嗟に目を逸らし、慌てて布団を目深に被ったけれど時既に遅し。  ゆっくりと、影がこちらに近づいてくる。  最悪な事に、保健室の先生は今少しばかり席を外している。こんな所で橘に会うなんて思っていなかったから心の準備がまだ出来ていない。 「なに、やってんだよお前、こんな所で」 「っ、グー……ぐ~……」 「アホか、寝たふりしてもバレバレだっつーの!」  ギシリとベッドが軋む音がして、すぐ隣のベッドに橘が腰を掛けた。呆れられてしまっただろうか? そう思ってそっと目だけ布団から覗かせるとベビーフェイスがジッとこちらを見つめていた。 「なに、熱?」 「あ、いえ。大したことじゃ無いんです。もう、全然! 部活に支障はないので――」   大げさなくらい身体を動かしてもう大丈夫だとアピールすると、橘の眉間に深い皺が寄った。そして、小さく息を吐いて近づき腰を屈めると突然雪哉の頬に触れる。  少しひやりとする大きな左手が前髪を掬い上げ、橘の整った顔がぐっと近づいて来る。 「――ッ」  あ、先輩ってまつ毛凄く長いんだ――。  息がかかりそうなほど近くに橘の存在を感じ、ふと、そんな事が頭を過った。そうじゃない! 違うだろう!?   あまりの近さに、自分でもぶわっと体温が上がっていくのを感じて戸惑ってしまう。 「あ、あのっ」 「……まだ熱いな。それに顔も赤い」 「そ、それは熱のせいじゃ……先輩が……っ」 「俺のせい?」 「そうですよ。先輩がいきなり顔なんて近づけるから……ッ」  熱くなってしまった頬は熱のせいもあるだろうけど、絶対それだけじゃない筈だ。  跳ね上がってしまった鼓動を落ち着けるべく息を整え見上げると、何故か橘まで赤い顔をしている。 「全く、お前は何処まで……」 「?」  何を言っているのかわからずに首を傾げると、橘はふいっと視線を逸らした。  そして、近くにあったパイプ椅子を引きずって来るとそこにどっかりと腰を下ろした。 「あ、あの……?」 「お前は直ぐに無理をするからな。俺が見張っててやるよ」 「ははっ、なんですか、それ……」  そう言いながら、ひやりと心地がいい手が雪哉の手をぎゅっと握る。 「そういえば、今授業中でしょう? 先輩も熱かなんかあるんじゃないんですか?」 「俺? 単なるサボりだから」 「え? サボりって……受験生がそんなんでいいんですか」 「いいんだよ。どうせ自習だし。つか、それよりも今はお前の方が心配だよ」 「……ッ」  突然のデレは本気で心臓に悪い。このままでは、熱が下がるどころか余計に上がってしまいそうだ。  ドキドキと早鐘を打ち始めた鼓動に気付かれないように、布団を目深に被るとほんの一瞬 橘が笑ったような気がした。  そして、伸びて来たもう片方の手が、そっと優しく髪を梳くように撫でてくる。  ひやりとした手の感触と、そっと髪を梳かれる感覚はなんだか凄くくすぐったい。 「……子ども扱いしないで下さい」 「そうか? 悪い。俺ん家、年の離れた弟が居てさ……こうすると落ち着くって言われたことがあったからつい」 「へぇ、弟さん居るんだ……」  普段、互いの兄弟の話なんてしないからなんだか不思議な気分だ。弟君はどんな子なんだろう?   目の前にいるこの人は、兄弟の前では優しいお兄さんなんだろうか? 「……今はゆっくり休め」  暫くはこうしていてやるから。とかなんとか言いながら、橘はずっと雪哉の手を握ったまま離そうとしない。  あぁ、コレはもしかしなくても寝付くまで居座るつもりだ。と雪哉は判断し、仕方なく全身の力を抜いた。

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