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強化合宿は波乱の予感⑪

合宿所を出て少し走ると海岸に出た。ちょうど朝日が昇ってくるところなのか、水平線の向こう側が薄らと明るんでいる。  海岸沿いの砂浜を軽くジョギングしながら、朝の空気を肺いっぱいに吸い込む。海風が髪を揺らして心地が良い。  波打ち際まで近づき、裸足になって海に足を浸すとひんやりと冷たくて、身体の火照りが引いて行くのを感じた。  広大な海にすぅっと光が差し込み始め、水面をキラキラと輝かせる。朝日を受けて銀を流したように光る海を眺めていると自分の悩みがちっぽけなもののように思えてくるから不思議だ。 「……綺麗だな」 「……ホントだ。スマホ持ってくりゃ良かった」 「!?」  独り言のつもりだったのに返事が返ってきたことに驚いて振り向くと、いつの間にか後ろに増田が立っていた。 「先生……。お、驚かさないでくださいよ……!  心臓止まるかと思ったじゃないですか!」 「ハハッ、ごめんごめん。そんな驚くとは思わなかったんだよ」 「普通は驚きますよ……」  すぐ後ろに居たのにまったく気配も足音もしなかった。まるで忍者みたいだ。  それにしても、昨日散々ヤリまくっていたというのに、朝から爽やかな笑顔で話しかけられるとこちらが戸惑ってしまう。  まさか昨夜のやり取りを盗み聞きしている人がいた、だなんて考えても居ないのだろう。 「萩原はこんなとこで何やってるんだ?」 「……っ、ちょっと走りたい気分だったんです」  まさか、先生と和樹に充てられてうっかり流され、先輩と関係を持った挙句、それが頭から離れないので邪念を振り払いたくて走っていたなんて口が裂けても言えるわけがない。 「へぇ、偉いな。ちゃんと自主トレも欠かさないとは」 「いえ……」 「でも、あんまり無理するなよ? 身体壊したら元も子もないんだし」 「はい」  増田は靴を脱いでズボンの裾を捲り上げると、そのままざぶざぶと海に入って来た。 「ははっ、冷たくて気持ちがいいな」  増田はそう言って雪哉の隣にやってくると、屈託のない笑みを浮かべた。  潮風に吹かれて乱れる髪が朝日に照らされ眩しいほどに煌めいていて、妙な色気を感じる。  和樹がしきりに「マッスーがカッコイイ」のだと騒いでいたのを思い出す。確かにこうして見ると整った容姿をしているし、バスケに関しては厳しくて容赦のない一面も持っているが、基本的には面白くて良い先生だと思う。  そういえば、 「先生はいつから……」 「ん? なんだ?」 「……っ、なんでもありません」 「?」  危ない、自分は今、何を聞こうとしていた?  和樹との関係を聞くのは、自分が覗いていた証明をしてしまうようなものだ。そんなことは絶対出来ない。  何か話題を変えなければと思って口を開きかけたその時――。 「お? なんだ、なんだ? もう一人くそ真面目なヤツが来たみたいだな」 「えっ?」  増田の言葉につられて振り返る。その視線の先には今、一番会いたくなかった人物の姿があった。 「……橘、先輩……」  どうしよう、どんな顔をして会えばいいんだ。  橘は真っ直ぐに二人の元へ歩いてくると、増田の横に並んで立ち止まった。 「おはようございます。マッスー、早いっすね」 「おぅ、おはよ。お前も早朝ランニングか?」 「えっと、いや俺は……コイツに用があって……鷲野から走りに行ったって聞いて……」  橘はふぅ、と息を整えると、ちらりと雪哉に視線を向けた。 「……っ」  何だか、いたたまれない。昨日の今日で、どういう顔をすればいいのか分からない。  橘は、何を言われるのだろうとビクビクしている雪哉の様子に気づいたようで、ふっと表情を緩めた。 「そんな怯えた顔すんなって。別に取って食おうって訳じゃねぇから」 「……」 「おい、橘。あんま後輩苛めんなよ?」 「人聞き悪い事言わないでくださいよ。つか、少しだけ席外して貰ってもいいっすか? 二人だけで話がしたいので」 「ん? ぉお……じゃぁ、朝練の時間までには戻って来いよ?」  増田はチラリと雪哉に目配せすると、小さく溜息をついて合宿所の方へと戻って行った。  一体、自分は何を言われるのだろうか?  想像しただけで怖い。  だが、逃げることも出来ずにただ黙っていると、橘は真剣な眼差しで雪哉を見据えてきた。  その瞳はいつもより鋭く見え、思わず怯んでしまう。しばらく無言のまま見つめ合っていたが、やがて橘が口を開いた。 「……っ、ゆうべはその……悪かった」    橘はバツが悪そうにそっぽを向きながら謝ってきた。  何を言われてしまうかと身構えていたので、予想外の謝罪の言葉に拍子抜けしてしまった。 「え……っ」 「つい調子に乗って……やりすぎた」  まさか橘の方から謝罪されるとは思っていなかった。  正直なところ、雪哉も途中から記憶があやふやで、いつ終わったのかもよく分からない。ただ、身体が怠いし鈍く腰が痛むので、かなりの時間抱かれ続けていたのだろうとは思うが。  そもそも、あの時の自分は完全に理性を失っていた。普段なら絶対にあんなことを口走ったりしないのに。それに、困ったことに雪哉は、その行為が嫌ではなかった。むしろ気持ちよすぎて、癖になってしまいそうなくらいで――。 「あぁ……いえ……えっと……気にしてませんから」  気にしていないと言ったら噓になるが、今はこう言った方が丸く収まる気がして、精いっぱいの作り笑いで答えた。 「その……僕は女性では無いから妊娠とかの心配もないですし……それに、その……我慢、出来なかったのは僕も同じだし、あの雰囲気に流されてしまったと言うか……だから、その……っ」 「……」  橘は何も言わずに雪哉の話を聞いていたが、雪哉の言葉が途切れたところで突然、頭をぐしゃぐしゃ掻きまわしてその場にしゃがみ込んだ。二人の間を波が通り過ぎて行く。 「えっと……先輩?」 「あー……もう……ッ」 「……?」  どうしたんだろうと思っていると、しばらくして橘は立ち上がり、雪哉の腕を掴んだ。 「~~~~っマジ、お前、ほんとなんなんだよっ!! 可愛すぎんだろ!!」 「えぇ!?」  なんでそうなるんだ?意味が分からず混乱していると、橘はそのまま雪哉を抱き寄せた。 「ちょっ……なに……」 「あー、くそ……っ、またシたくなってきた」 「は!?」 「――っ、冗談だよ、冗談。さすがにこれ以上ヤったら、合宿に支障出るしな」 「……っ」  そう言う問題ではない気がする。 「質の悪い冗談は止めてくださいっ!」 「ははっ、わりぃ。……昨夜みたいなことはもうしねぇよ。俺らがギクシャクすんのはやっぱチームの士気に関わって来るし。もう、やんねぇから。………でも、あんまり無防備にしてんじゃねぇぞ。お前が襲われたい願望でもあんなら話は別だけど」 「あ、あるわけないじゃないですかっ! そんなのっ!」  どうしてこの人はいちいちそういう方向に持っていこうとするのだ。  やはり苦手だと思ったところで身体を離されたのでほっとしていると――不意打ちのように唇を奪われた。  しっとりと唇を吸われ、びくっと身体が震えた。すぐに離れたが、キスをされたことに変わりはない。  一瞬の出来事だったが、何が起きたか理解するのに数秒かかった。  呆然と立ち尽くしていると、橘はニヤリと口角を上げて笑みを浮かべる。  そして、雪哉の耳元で囁くように呟いた。 「……ほら、隙だらけ」 「な…っ…な……っ!? ば、馬鹿じゃないですかっ!?」  顔が熱い。きっと真っ赤になっているだろう。心臓がうるさいほどに高鳴っていて、胸が苦しい。  橘は満足げに笑うと、ひらりと手を振ってその場を去って行った。 「くそっ……」  こんなの、反則だ。心臓がドキドキと音を立てている。 橘と居ると自分のペースを乱されてばかりだ。やっぱり、あいつは苦手だと心の中で毒づいて、雪哉は火照る頬を冷ますために走り出した。 朝日を受けてきらめく海が眩しくて、目を細める。 橘が残した熱はいつまでも消えることは無かった。

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