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忍び寄る悪意⑥

 残暑が遠のくと、季節は露骨に秋の顔を覗かせてくる。  秋雨前線が本州を覆い、空を灰色に染めたある日の午後。    部活も終わり、皆が帰った後も雪哉は一人体育館でシュートを打っていた。 「はぁっ、はぁっ……はぁ……」  一通り打った後、膝に手を当て荒くなった呼吸を整える。汗で濡れた前髪が額に張り付いて鬱陶しかった。 「……っ、あっつ……」  大きく息を吐き出し、その場にへたり込む。全身から流れ出た汗のせいで練習着ががびしょびしょに湿っていた。  時計を見ると、既に針は七時を指している。今日は橘は委員会があるとか言ってたし今日はもう来ないだろう。  寧ろ、来なくて良かった……。今朝の夢の事があるから、どんな顔をしていいのかわからない。  会ったらきっと、ギクシャクしてしまう。何となくだが、そんな気がする。    タオルで身体の汗を拭き取り、道具を片付けて体育館を出た。外は、今にも雨が降って来そうなほど薄暗い。  ムッとした空気が身体に纏わりつて来て、余計に不快感が増した。  雨が降る前に早く着替えて戻ろう。そう思って自分のロッカーに指を掛け――。 「……え……っ?」  扉を開けた瞬間、違和感に気が付いた。きちんと畳んで置いたはずの制服が、何故か乱暴に投げ入れられている。  おまけに閉めたはずのカバンまで開いていてそこからぐちゃぐちゃになった着替えが飛び出していた。  慌ててロッカーから引っ張り出すと、それは間違いなく自分の服なのに酷く汚れているように見える。そして、なによりも……。  その汚い衣服から立ち上る、微かに鼻を突く独特の匂い。  一瞬、自分の身に何が起こったのかわからず呆然とする。……一体誰がこんな事を。  得体のしれない恐怖に思わず身震いし、制服を手に持ったまま固まっていると突然後ろから肩を掴まれた。 「うわっ!?」 「おわっ!? んだよ、びっくりさせんなっての」  背後から声を掛けてきたのは橘だった。雪哉は咄嗟に自分のカバンに制服を強引に押し込みチャックを閉める。 「た、橘先輩……」 「幽霊が出たみたいな面して、どうした?」 「あ……いえ。今日は来ないのかと思ってたから……」  動揺がバレないように平静を装いつつ、いつもどうりに言葉を返す。すると、どこか様子がおかしい事に気がついたのだろう。心配そうにこちらを見つめる瞳と目が合った。 「……なにかあったか?」 「え? どうしてですか?」 「いや、お前元気ねぇみたいだから」  そう言いながら、そっと腕を伸ばして優しく頭を撫でられる。  その温もりと優しさに触れて、今朝の夢を思い出して鼓動が早まった。 「大丈夫です。ちょっと疲れてるだけですから」 「ほんとかよ?」 「本当ですよ」 「……まぁ、いいや。なんかあったら言えよ?」  頭を撫でていた手がするりと頬に降りてきて、甘さの含んだ眼差しで見つめられ思わず視線を逸らす。 「あ、あの……! そろそろ僕帰りますね。明日も朝練があるので、寝坊しないようにしないと」  これ以上ここに居たら、今朝見た夢の事ばかり考えてしまいそうで怖かった。 「あ! おい、着替えないのかよ」 「っ、……」  指摘され唇をきゅっと噛みしめた。慌てて踵を返し、俯いたまま「今日は、このまま帰りたい気分なんです」とだけ告げる。 「ふぅん? 変な奴だな……」 「っ、失礼しますっ!」  それだけ言うと、まだ何か言おうとしている橘を置いて足早に部室を後にした。そのまま、校門に向かって走りだす。  途中すれ違った生徒にぶつかってしまったが、それすら気にならない程に気が急いていた。  早く家に帰ろう。そして、この服をどうにかしなければ。 雪哉は焦る気持ちを抑えきれず、自宅へと急いだ。  今はただとにかく、一人になりたかった――

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