67 / 152
忍び寄る悪意⑩
雪哉は無理やり口角を上げて、精一杯の笑みを浮かべた。
先輩、ありがとうございます。
そう、伝えたかったのに。口からは掠れた声しか出てこなかった。
「……っ」
「なぁ、萩原……お前、本当は何か……」
橘が何かを言いかけた時、廊下の向こうからバタバタと慌ただしい足音が聞こえて来た。
「あれ? 橘、まだここにいたのか? って、なんだ萩原まで……どうしたんだ?」
声の主はキャプテンでもある渦中の大久保だった。不思議そうに雪哉と橘の顔を見ては交互に見比べている。
「いや、こいつがなんか具合悪そうだったんで、ちょっと様子見てただけだ」
「えっ? 本当か? 大丈夫なのか、萩原……あまり無理はするな」
心配そうに顔を覗き込んでくる大久保はとても、雪哉の荷物を隠すような悪質ないたずらをした人間の態度には見えない。いや、ただ単にそう思いたいだけかもしれないが。
「だ、大丈夫です! ホントに何もないですから!」
大久保に弱っている姿だけは見せたくなくて、雪哉は勢いよく立ち上がった。そのまま、「練習に戻ってください。ご迷惑かけてすみませんでした」と頭を下げて部室を後にしようとしたのだが、不意に右手を掴まれ強い力で腕を引かれた。
バランスを崩し転びそうになりながら引き寄せられ、橘の胸に身体が密着する。
「なっ、何するんですかっ」
慌てて離れようとしたが、橘の腕は力強く、まるで逃げるのを許さないと言わんばかりにきつく抱きしめられた。
「離してくださいっ!」
「……お前、やっぱりおかしいぞ……何があった?」
耳元で聞こえる低く落ち着いた声に、ドキリとして身体が熱くなる。
「べ、別に何もおかしくないですよ! 僕はいつもどうりですから……」
「うるせぇ。今は、お前の方が大事だ!……大人しく、話せよ」
「~っ」
そんな声で、そんな事を言われたら……。
「ほ、ホントに何もないですって! だから、早く練習戻って下さいって言ってるのに」
このままでは、気持ちが溢れてしまいそうで怖くて、雪哉は橘の胸を押し返した。
けれど、その抵抗も虚しく逆に余計にきつく抱き締められてしまう。
「は、離して下さい……っ」
此処には大久保もいるのに……っ。ふと、橘の肩越しに大久保と目が合って、一瞬息が止まりそうになった。
大久保は、何ととも表情の読めない顔をしてジッとこちらを見ていて、何故か……無性に心がざわついた。
「あ、あー……俺は何も見てないぞ。取り敢えず、落ち着いたら戻って来いよ? お前ら」
ゴホンと咳ばらいを一つして、大久保が自分のロッカーからタオルを取り出すと、そそくさと部室から立ち去っていく。
もしかして、気を利かせてくれたのだろうか? だとしたら、大久保が犯人なんてことは……。
「あの、先輩……離して……下さい」
「いやだ」
「な……っ!?」
「そんな、今にも泣きそうな顔されて……放っておけるわけないだろ」
そんなに酷い顔しているのだろうか? よくよく考えたらさっきから凄く恥ずかしい事を言われているような気がする。
「言えよ。何があったのか……じゃないと今すぐ此処で押し倒すぞ」
脅すようにそう言いながら熱い手の平がそっと頬を撫でた。顎をくいっと持ち上げられて視線がぶつかる。
綺麗な琥珀色の瞳に射抜かれ、思わず喉が鳴った。
全てを話してしまえば、楽になれるのだろうか? そんな考えが頭を擡げる。
だが、まだ犯人が大久保だとハッキリ決まったわけでは無い。自分の勘違いと言うことも充分あり得るのだ。
そんな不確定な情報で、ウインター前の大事な時期に、部内を混乱させるわけにはいかない……。
それに、橘にとって大久保や鈴木は大切な友人のはずだ。 そんな人を疑っていると知れば、その関係にだってヒビが入ってしまうかもしれないのだ。
そんな事、雪哉は望んでいるわけでは無い。 出来れば穏便に事を終わらせたかった。
それに……雪哉自身、大久保が自分に牙をむいていると言う事実から目を逸らしたかった。
全く関係のない人間が犯人であると信じたかったのかもしれない。
「……すみません。やっぱり今は話せないんです。僕も……色々あって少し疲れてるみたいで……もう少しだけ、時間をくれませんか?」
「…………そうかよ。わかった」
諦めた様に小さく息を吐くと、橘は拘束していた手を緩め雪哉を解放した。
ともだちにシェアしよう!