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切ない思い ③
「やっぱりちょっと寒いね、萩原君」
「そりゃ、そうだよ」
風呂上り、昼間の事が尾を引いて未だに口を利いてくれない拓海の事をどうしたものかと一人考えながら歩いているとロビーでばったり風呂上りであろう朝倉みなみと出くわした。
増田や橘から、彼女には気を付けるようにと散々言われていたが、まさかこんな所で出くわすとは思ってもみなかった為に、互いに黙ったまま数秒の沈黙が訪れる。
どうしても、宿泊しているホテルの屋上から見える10万ドルの夜景を一緒に見てみたいと懇願されて、やって来たのが数分前。
雪こそ降っていないものの、2月の夜はやはり寒い。昼間少し雨が降っていたせいもあるだろう。念のため、部屋にコートを取りに戻ってよかった。
雨はすっかり上がって、厚い雲は所々で切れ目を見せ始めていた。そんな隙間から綺麗な半月が時折姿を見せて京都市内の風景をくっきりと浮かび上がらせていた。
空がロイヤルブルーに染まり、湿気を含んだ透明な大気に京都タワーを中心としたネオンがキラキラと輝いて空とネオンのコントラストがとても見事に映っていた。
「うわ……綺麗」
一瞬、寒いなんて気持ちは頭の中から消え去ってしまっていた。正直、10万ドルの夜景だなんて大げさすぎるだろうとあまり期待していなかったが、空気が澄んでいるせいもあってか悩んでいたのが馬鹿らしくなってくるほどに綺麗だと思った。
「ほんとに、綺麗だね」
そう言うと、彼女は心底嬉しそうに「うん」とだけ答えた。
突然、二人きりで夜景が見たいなんて言うから、一瞬身構えてしまったがこうやって彼女を見る限り、色んな男たちを弄んで裏で指示を出しているような悪女には到底思えない。
「ねぇ、なんで僕とだったの?」
「えー? なんでって……それ、萩原君、聞いちゃうの?」
景色を眺めていた彼女がくるりと振り返り、悪戯っぽい目で雪哉を見る。いつも結んでいる髪を下ろしているからだろうか?
さらりとしたストレートヘアが風に揺れ、いつもより大人っぽく見える。
なんで、などと聞くのはやはり野暮だっただろうか? 告白を期待していると思われたら困る。
「――っ、」
何か言おうと口を開きかけたその時、屋上に続くドアがガチャリと音を立てて開いた。
雪哉は驚いて無意識のうちに物陰に隠れ彼女を隠す様に壁に押し付けた。
「ちょ、萩原く……」
「シッ、誰か来る」
冷静になれば隠れる必要などないのはわかりそうなものなのに、気が動転していて自分が今、彼女に何をしているのか。そこまで意識が回らなかった。
思わずスパイ映画か何かのように息を殺しそっとそちらに視線を向けると、そこに見覚えのある黒い髪の青年と、背の高い男がつい先ほどまで自分たちが景色を見ていた場所に立っていた。
「わー、すっげー。キレー! ほらほら、マッスーやべーよココ。当たりじゃね?」
静かな場所にそぐわない賑やかな声に驚いて、思わず息が止まりそうになった。自分たちと同じジャージ姿の男子は、いつも一緒に行動している和樹だ。
風呂上がりのせいか、いつもナチュラルに仕上がっている丸みを帯びた髪はぺたんとしていて、幼い顔がさらに幼くなっている。
雪哉達がいる場所からでは顔は見えないが、ほんの少し丸くなった背中や無造作に切られた後ろ髪、そして増田が愛煙している煙草のフレーバーの香りが漂って来ているから相手は増田先生で間違いないだろう。 普段から仲がいいなと常々思っていたが、このくそ寒い時期に夜景を見に来るような間柄だったのだろうか?
幸い二人は雪哉達の存在には気付いていないらしい。 と、言うよりこの寒い中夜景を見に来るような輩が居るとは思ってもいないと言った感じだろうか。
「まぁ確かに綺麗だけどさ、寒いって。景色なんてどこで見ても一緒だろ」
「夢がないなぁ、マッスー。東京じゃ、ネオンが眩しすぎてこんな景色見えないよ」
夢がない、と言われ増田は困ったように頭の後ろを掻く。だが、拒否するわけでもなく和樹が好きなようにさせている印象を受けた。
(まるで子供を見守る保護者みたいだな……)
もしかしたら今なら出て行っても気まずくなったりしないんじゃないだろうか?
だが、その考えが甘かった。
「――マッスー。俺さ……マッスーの事好きかも。多分……恋愛的な意味で」
「え……」
天気の話でもするようなタイミングと声色で和樹の口からするりと発せられた言葉に、身を
捩りかけた雪哉の動きがぴたりと止まる。
「何それ、新手の冗談か?」
「酷くね? ジョーダンなんかじゃないってば」
増田の表情は相変わらずわからない。ただ、明らかに動揺している雰囲気が手に取るように伝わって来て、雪哉は完全に身動きが取れなくなった。
友人の一世一代の告白シーンに居合わせてしまったことがバレたら気まずい処の話じゃない。
心臓がうるさいほどに打ち鳴らされているのが分かる。呼吸音すら聞こえてしまいそうで、どうかバレませんようにと願いながら、息を顰めて成り行きを見守った。
「俺、本気だよ? 本当にマッスーの事がs――」
全ては言わせて貰えなかった。和樹の言葉にかぶせるようにして増田が静かに言葉を紡ぐ。
「和樹。それ以上は……。言わない方がいい。悪いけど、俺じゃ君の気持ちに応えてあげられないから……」
抑揚のない声だった。まるで、すべての感情を悟られないように敢えてそうしているかのような。言葉だけでは何の感情も受け取れない。
「……そ、っか……。そう、だよな……ごめん」
そう言って俯く和樹の姿が、なんとなく未来の自分と重なった気がして胸が痛んだ。
「顔を上げてくれないか。和樹にそんな顔をさせたいわけじゃない……。ただ、今は無理なんだ」
「今、は?」
「そう、来年……、お前が卒業する頃になっても、やっぱり気持ちが変わらなかったら……。また、告白しに来てくれないか? その時は、俺もちゃんと考えるから」
「……ずりぃよ。マッスー……一年もお預けとか……やっぱマッスー鬼じゃん」
「ハハッ、今の気持ちは一時的な物かもしれないだろう? 後悔だけはさせたくないんだ」
今にも泣きそうな表情をする和樹の頭を撫でながら、僅かな隙に増田が顔だけこちらに向けた。
目が合ってぎくり、と身体が硬直する。ひゅっと息を吸ったまま吐き出せなくて瞼を閉じることも、指を一本動かすことすら出来ずに全身に嫌な汗が噴き出してくる。
増田はそっと人差し指を立てこちらに向かって悪戯っぽくウインクを一つすると、俯いて涙を堪える和樹に向き直り、何事もなかったかのようにそっと肩を抱いて自分の方へと引き込んだ。
「ほら、そろそろ行こう。寒いし……風邪をひくぞ」
「ん……」
やり方が手馴れている。さり気なく気遣うふりをしながら屋上を後にする二人の姿を確認し、雪哉はようやく止めていた息を吐きだした。
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