62 / 65

その後の話

「ふんふんふーん…」 ———ブーッ、ブーッ———— シャワーを浴び終わり、上機嫌に鼻歌を歌っていると、静かな浴室にスマホの振動音が響いた 彼はシャワーを止め、バスタオルを腰に巻き付けてからスマホを手に取った 「Hello?」 『…ご無沙汰しております。亮介さん』 「ああ、どうもぉ。どうですか、そちらは」 電話に出た亮介は今まで上機嫌だったというのに、画面先の相手の声を聞いた瞬間、めんどくさそうに口を尖らせた 『変わりありません。この前のことで、お礼を渡したいんですが…』 「ああ、俺もう日本にいないからいらないや。なんかそういうのめんどいしぃ」 『本当にいいのですか?失礼ですが、貴方にはなんの得にもならないのでは』 画面先の相手はなんとも投げやりな彼に困惑気味に問う それでも彼は答えるのも面倒そうに話すのだ 「特ならあるよぉ。あの、ミナトぉ?だっけ?あのガキがいると、子猫ちゃんがなかなか構ってくれなくて。邪魔だったんだよねぇ」 『…なるほど、あくまで目的のためと』 「そのとおり。ちゃあんと得はあるよ」 亮介は気怠げながらも嬉しそうに言った 自然に声が弾み、それは画面越しでもわかるほどだろう 呆れたような、吐息混じりに言われた言葉に彼も伸びをしながら答える その時 「亮介さーん!!」 遠くで誰かが彼の名前を呼ぶ 浴室まで届く大きな声に、亮介はフッと笑うと、再び電話に意識を向けた 「おっと、子猫ちゃんがお呼びだからぁ、もう切るね?」 『ああ…ではこの話は…』 「これで終わり。俺達はお互いの利益のために一時的に手を組んだだけ、ここからは他人だ。いいな」 『ええ、その通りに伝えておきます」 「おっけぇ、Bye!」 話が終わるとすぐに電話を切り、亮介を呼ぶ声の方へ歩く その足取りは軽く、踊るようにテンポよく進んで行く 「どうしたの?美風」 「あ、亮介さん。ここ掃除したいんだけど、掃除機ってどこ?」 声がしたのは1階にある浴室から少し離れた2階の部屋 そこは美風の寝室だ 階段を登りドアを開けると、部屋の真ん中に佇む美風がいた 美風はどうやら部屋を整理していたらしく、物をどかした際に出た埃を掃除機で片付けたいらしい それを聞いて亮介は首を傾げる 「ええ?掃除ならジェニーに頼めばいいのに」 「…あの人少し苦手なんだよね。部屋に入れるのはちょっと嫌」 「そうなの?じゃ新しいハウスキーパー雇う?」 「いやそこまでじゃないけど…、とにかく掃除機出して」 美風は亮介の言葉に首を振り、変わらず掃除機を要求してくるが、亮介も掃除機の場所はわからないと言うと、いつものようにため息をついた 「亮介さんって掃除したことないの?」 「ない。掃除も料理も洗濯もぜーんぶしたことない」 「それは、大変だ…」 亮介のいつものおちゃらけた言い方に美風はまたため息をつくが、突然閃いたように手を叩いた 「あ、そうだ。じゃあ今日の夜ご飯は自分で作ろ」 「お、美風の手料理!」 「違う亮介さんが作んの」 「え!?俺料理できないって」 美風の突拍子もない提案に亮介は慌てふためく 美風はいい考えだ!と亮介の手を引いて部屋の外に出ていってしまう 亮介はよくわからないまま美風の後をついた 「僕が教えてあげる。まずは買い出し行こ」 「んー、美風が手伝ってくれるなら、楽しみかも」 「ちゃんとやってよ?」 「ちゃんと教えてよ?」 そう言って2人は笑い合った いろいろあったが、美風もこちらの暮らしに慣れ、今では1人でも出歩けるくらいになった 最初は英語を話せないと、あたふたしていた記憶が蘇る それが今では日常用語はなんとか話せるようになり、英語表記の本も、飛び飛びではあるが読めるようになった それもこれも亮介が美風に手取り足取り英語を教えてくれたからだ 今でも日本が恋しくなる時もあるが、意外にこちらも居心地はそう悪くない 亮介は金持ちで、家は広くて豪華 いつも家政婦さんが家事をしてくれているため、亮介は家事とは無縁の人生を歩んできたのだろうが、美風はそれが勿体無いと感じた ちょうどいいからこの際教えてあげよう きっと2人で作ったら楽しいし、美味しい そう考えて美風と亮介は近所のスーパーに来ていた 近所とはいえ、車を使わないと行けない距離ではあるが 「何作んの?」 「んー、パスタ、とか」 「いいね、俺パスタ好き」 「亮介さんなんでも好きじゃん」 そんなやりとりをしながら食材を見ていると、突然若い女性が亮介さんに話しかけてきた 『ねぇ、調子どう?』 『…ああ、良いよ。君は?』 『良いわ。今日は最高の日よ』 『それはよかった』 女性の挨拶に亮介は淡々と返し、そのまま立ち去ろうとしたのを女性が慌てて止める 『よかったら連絡先教えて欲しいの。私、あなたに一目惚れしちゃったみたい』 これは、ナンパだ! 英語なので美風は途切れ途切れにしか内容はわからないが、女性の色っぽい声音と仕草は、まさに映画で見たような海外ナンパそのものだ そういえば今日、亮介はサングラスを付けていない 美風に手を引かれ慌てて家を出たためか、ちょうど風呂上がりでサングラスをつけ忘れてしまったのだ たしかに亮介はイケメンの部類に入るのだろうが、サングラス一つで場所問わずモテてしまうなんて いやはや、イケメンとは恐ろしい サングラスをつけていないことに亮介も気付いたのだろう あ、しまった!みたいなわかりやすい表情の後、2人のやりとりを黙って見ていた美風の肩を抱き寄せると、亮介は堂々と言った 『ごめんけど、恋人いるから』 そう言って美風の顎をクイっと持ち上げると、女性に見せつけるように唇にキスをした あまりに自然な流れに美風は反応できず、気づいた時にはキスされていた 美風は驚きで持っていた買い物かごをドサッと音を立てて落とした 「付き合った覚えはないんだけど」 「えー!冷たいなぁ、毎日おんなじ屋根の下で寝てるのに」 「部屋違うじゃん」 美風が機嫌悪くそう言うと、亮介は両手のビニール袋を子供みたいに揺らして言った キスされた時、美風は恥ずかしさで死ぬかと思った 日本でもあんな風に人前でキスしたことなんてなかったし、その前に美風は男だ お世辞にもひけらかすような関係ではないのに、亮介はなんの躊躇いもなくやってしまった 彼には恥じらいと言うものがないのだろうか 亮介とは長い付き合いになるのに、こんなことされたのは初めてで、美風は動揺していた 「怒った?」 「別に、怒ったわけじゃないけど…」 どういう反応をすればいいのかわからず、美風はそれ以上は言わずに黙った 確かにここは日本ではない 仮にも多様性を認めてくれる国ならよかったが、目の前にいた女性は驚きで目を見開いていたため、そういうわけでもないらしい チラリと亮介を見る いつもとんちんかんでフラフラと危なっかしい彼が、ここら辺では有名なマフィアだなんてあまりにも信じられなかった そう、亮介はこちらに帰ってきて早々父親の後を継ぎマフィアのボスとなった 前々から聞いていた話だったが、まさか美風自身がマフィアのボスのセフレになるなんて思いもしなかった でもマフィアとは名ばかりで、彼はずーぅっと家にいる もっと血生臭い展開を予想していたが、あまりにもぐうたらな亮介を見ると、全てが嘘なんじゃないかと思い始める 聞けば亮介はマフィアのボスなんて全く興味がないらしく、喧嘩も嫌い、物欲もない 「仕方なくやっているの。だから仕事は全部部下がやってくれるんだよね。俺が出るのはごく一部のくだらない話し合いの時だけ」 彼はそう言っていた だからずっと家にいるし、ダラダラと過ごしていても勝手にお金が入ってくる そんな夢みたいなことあってたまるか、と思ったが、実際亮介は金持ちなので真相はわからない 「俺の顔になんかついてる?」 あまりにまじまじ見すぎたか、亮介が顔をずいっと近づけてくる 視界いっぱいに亮介の顔が見える サングラスがないおかげか、彼のグレーの瞳がよく見えた 部屋の中で見るのとは少し違う、日の光で宇宙のようにキラキラと反射して綺麗だった そこでようやく美風はハッとして、顔を離した 「べ、別にっ、早く帰ろ。お腹減った」 「うんうん俺も腹減った!たくさん食べよっと」 「はいはい」 2人はスーパーを出て車に乗ると家路を辿る 帰宅するとすぐ準備に取り掛かった パスタ自体は茹でるだけなので、その前にその他の具材を切って鍋にかける 今回はトマトソースパスタだ ぐつぐつと泡を吹く赤いソースをいじりながら美風は先ほどのことを思い出す サングラスをかけていない亮介はとてもモテる しかもスーパーで! こんなことあり得るのだろうか 「亮介さんて彼女いないの?」 「え?いないよ、美風がいるじゃん。ちょっと味見させて」 「ん、はい」 洗い物が終わり、鍋をかき混ぜる美風の横に立った亮介にそう聞くと、亮介はさも当たり前かのように言った ソースをよそった小皿を渡すと、亮介はうまっ、と呟いて唇を舐める 「でもさ、勿体無いよね。せっかく顔がいいのにサングラスなんかしちゃってさ」 「そー?俺は別に女の子と付き合おうとは思わないしなぁ」 「そういえばこっち来てから僕たちシテないけど、どこで欲求解消してんの?」 純粋な疑問だった 一夜の相手ならそこらの女性を捕まえることくらい簡単なのに、あいにく亮介はずっと家でダラダラ過ごしている 思えば日本でも美風と会う時はあったが、ご飯を食べたり、飲みに行ったりするだけでセックスは一度もしたことがないなと思い返す 欲が薄い人なのか、もしくは男は抱かない主義? でもさっき思いっきりキスされたのにそんなことあるのだろうか もしくはそういうことが苦手な人? 「亮介さんってもしかして童貞?」 「おぉ?馬鹿にしてる?」 「いやそうじゃないけど」 ちょっと率直に言い過ぎただろうか あたふたする美風に亮介はずいっと顔を寄せてきた 「それって俺を誘ってんの?」 「ちがっ…」 急に顔を近づけられ後ずさるが、腰を引き寄せられてさらに距離が縮まる 上から見下ろされる形で抱き寄せられて身動きが取れない 「トマトソース」 「…え?」 「美風の顔、トマトソースみたい」 そう言ってニヤリと笑うと、亮介は美風を離す 呆気に取られた美風を置いて、亮介は鍋の火を消すと、完成!と嬉しそうに言った 彼はソースをよそい、パスタと絡めていく その様子を見て、先ほど言われた言葉の意味を理解した 美風は自分の顔に手をやると、そこはいつもより熱を発していた きっと絡めたトマトソースと同じくらい赤く染まっている事だろう 「「ご馳走様でした」」 2人して行儀良く手を合わせる あれほどパスタが山盛りだった亮介の皿も、綺麗さっぱりなくなっていた 彼はかなりの大食いだが、未だ底知れなたことはない これほど食べているのに太らないのは何事か、とても羨ましい 「さて、食べ終わったことだし、風呂入りますか」 「その前に!洗い物片付けないと。鍋とかフライパンとか全部ね」 「えええ…」 ぶつぶつ言いながらも食器を丁寧に洗っていくあたり、やはり亮介は優しいんだと思う その後、美風から亮介の順で風呂に入り、いつも通り寝室で寝る準備をしていると亮介が美風の部屋に入ってきた 「掃除機あった」 「え、今更?もういらない」 「マジか、せっかく見つけたのに」 亮介の手には円盤型の自動掃除ロボットが握られていたが、必要ないと知ると、それを床に置き、流れるように美風のベッドに倒れ込んだ 「ちょっと、ここ僕の部屋なんだけど」 「まあまあいいから、ここ、隣来て」 亮介は寝そべったまま、ぽんぽんと隣を叩く 少し迷ったが、美風は言う通りに亮介の隣に、向き合うように寝っ転がった 何をするかと思えば、寝転がる美風の頭にチュッとキスをして見せた あまりの急なスキンシップに固まっていると、亮介は続けて美風の頭を撫でながら言った 「さっき俺に童貞って聞いたでしょ?」 「うん」 「それね、半分正解」 「何半分って」 「美風に出会ってから誰とも、一回もしてない」 亮介は美風の髪をいじりながら、なんの恥ずかしげもなく言うものだから、美風がおかしいのではないかと錯覚する あまりに堂々とした態度をされると、やはり反応に困るものだ 「それほんと?」 「うんマジ」 「でもナンパとかしてたじゃん。飲み屋街とかで」 「飲むだけね、ホテルは行かない」 「え、なんで」 「1人で飲むの寂しいじゃん?美風を誘いたいけど、いっつも俺以外といるし」 亮介は子供のように口を尖らせて言った 全く知らない事実を話されて、美風は戸惑う そんなこと話して何になるんだと思うが、こういう時、大体次に来る言葉は決まってる 「俺、美風のこと、本気で好きだから」 柄にもなく真剣そうに、亮介は美風を真っ直ぐ見つめて言った またあの宇宙みたいな瞳に見つめられ、どういうわけか金縛りになったように体が動かなくなった 吸い込まれそうになる 美風の心臓がドキドキと跳ねる だが決して亮介の言葉に喜んでいるわけではない 彼の目には言い知れない威圧感がある 見つめられた瞬間、まるで肉食獣に狙われた草食獣のように恐怖に似た感情が、美風の思考を侵食していく そんな事あるはずないのに、もしこの話を断ったら、彼の目に射抜かれたまま殺されてしまうんじゃないか そう思えるほどだった 「…僕は……」 逃げられない そう思った途端、急に体にのしかかっていた威圧感がパッと消えた 「もーそんな顔しないでよ!別に好きだからってどうするつもりもないからさ」 「…あ、はは…ごめん、ビックリしちゃって…」 美風はそう言って苦笑いしながら誤魔化した 先ほど感じていたものはまるで嘘のようになくなり、亮介もそんなそぶりは見せない 「じゃあ今日はおやすみ。また一緒にパスタ作ってね」 亮介はまたもおでこに触れるだけのキスをすると、愉快そうに部屋を出て行った さっきのはいったいなんだったんだろうか 美風はまだ立つ鳥肌を撫でるが、そうすればするほど、先の感情は本物だったと実感する だが美風はそんな違和感の正体を、今後も知ることはないだろう

ともだちにシェアしよう!