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$5.虎穴に入らずんば虎子を得ず⑦
凍りついたような雰囲気の中、江口は背筋を伸ばし声を張って言った。
『わかったらさっさと取り掛かれ』
「かしこまりました!失礼します」
横で苦悶の顔で下を向く新人の肩を持って"行くぞ"と小さく言いながら出て行く。ドアの前で後ろ振り返った新人は郁と目が合う事はなかった。
神崎家で失態を犯した者はいなくなるのみ。新人やベテランの区別はなく、大目に見る許しやまたのチャンスなどはない。こうして使用人、ホテルスタッフ含め去っていく者は過去にも数え切れないほど。
それでも、待遇やホテルのブランド力で働きたい者の応募は絶えない。減ればまたすぐ次の代わりがいると言うわけだ。
『それにしても次から次へとこれほどに不運が続くとはな』
「しかし郁さん、好転反応という言葉をご存知ですか?悪い出来事が続く時は、良い運気に変化する一時的な現象なんです」
『ふっ、慰めのつもりか」
「本当です。犯人もすぐに見つかり時計も取り戻せます」
田ノ上は郁に少しでも肩の荷を下ろして欲しいとゆっくりと冷静な口調で言った。
『ただ頭を悩ます問題は他にもある』
「……アレの事ですか?旦那様は本気で言ってらっしゃったのでしょうか」
「親父の性格は田ノ上もよく知ってるだろ」
「迅速果断なお方ですからね。郁さん、どうなさるおつもりですか?」
郁にとって絶対的存在である父親の正吾。田ノ上も郁がホテル業に携わるようになるまではの正吾の秘書としてしばらく常に傍らで仕事ぶりや人となりを見てきて熟知している。
ある事でここ数ヶ月、別の問題にも直面していた。
「何か策をあればだが……」
「郁さんお食事にしましょう。こういう時はお腹を満たすのも大切です。お昼もまともに食べていないのですから。焦っても物事は上手く進みません」
「、、それもそうだな」
肩肘張っている郁に息休めしてもらおうと言った田ノ上はすぐに厨房に連絡をした。
秘書であると同時に良き理解者としての田ノ上には信頼を寄せていて、一人っ子の郁にとっては少し年の離れた兄のように話せる存在でもある。
ある意味いつも肩肘張って気難しい郁をコントロールできるのは他の誰でもなく田ノ上だけだ。
そして二人はそのまま部屋を出て一階へ降りて行った。
ダイニングの扉が開き郁が現れると、会話をしていた使用人たちも口を閉じて静かになり壁沿い一列に並んだ。1時間ほど前に上の部屋から聞こえた怒声をここにいるほぼ全員が聞いている。
"何かあったに違いない"と心の中で思っていてもそれを口に出せるものは誰もいない。第一に郁と普通の会話さえしたこともない者ばかり。
その中には郁の部屋清掃担当の日下もいたが、同じく会話した事は無かった。
だだっ広いダイニングに置かれた長いテーブルの上座に置かれている料理は数人で急いで料理をしたものだが、いつもの決まった専属シェフも居なければ材料も十分に揃っていなかった。そのため少々質素に見え、郁の口に合うかも分からない。
郁は椅子に腰掛けて目の前の料理に手をつけ始めて黙々と食べ始めた。そこにいる誰もが静かに見ているが味への不満はなさそうだと、安心した表情に変わった。
「郁さん、最近お酒を控えていたようですが今日少し飲んでみませんか?その方がよく眠れるでしょうし」
「そうするかな」
そう言って近くにいた使用人二人に指示したお酒を持って来させた田ノ上はそのまま持ってきたお酒をグラスに注ぐように言った。その内の一人は日下だったが初めての経験でなかなか上手く注ぐことが出来ない。郁の視線を手元のすぐ横で感じ、緊張で手も震えている。
「す、すいません。慣れてないもので、、」
「いつもは何を?」
日下が言った言葉に反応し珍しく声を掛けた郁に周りの使用人達は少し驚く。いつもは無視されるか叱られるのどちらかだからだ。
「恐縮ながら郁さんの部屋を掃除させて頂いてます」
「そうだったか」
郁は日下の顔から視線を下ろして足元を見た。そして何かに気付きもう一度顔を見て質問を返す。
「確か黒の制服は外担当ではなかったか」
「すいません!いつも着ている制服を洗ってしまっていた為、急遽借りまして」
「借りた?誰に?」
「同じ住み込みの家にいる新人の子ですが」
郁は田ノ上に目配せすると近寄って耳元でコソコソと内緒話を始める。そして田ノ上は日下以外の使用人達にに部屋から出るように言うとその場には三人だけになった。
「、、あのー…どうしました?」
「いや大した事ではないんだが少しだけ話を聞かせてもらいたい」
「話……ですか?」
「そうだ。今日あったことを話してくれるだけでいい」
そして田ノ上は日下に椅子に座るように促すとその横に自身も座る。そして郁は日下の顔を見ると不気味な笑みを浮かべ確信した。
"思いのほか早く解決するだろう"と。
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