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8 リベンジバレンタインデー
両親に乞われて年末年始は実家で過ごし、正月休みが終わる頃に先生の待つアパートへ帰った。そうこうするうちに後学期の授業も終わり、あっという間に春休みに突入した。
さて、二月といえばあのイベントが待っている。そう、バレンタインデーである。思い返せば二年前、つい最近のことのような気がするが、案外昔だ。クラスの女子が先生に告白しているのを偶然目撃して己の恋心を自覚し、即刻失恋した。実際はおれの勘違いだったので今があるのだが、しかしおれはバレンタインデーをやり直したいとずっと思っていた。
何をするかって、そりゃあもちろんチョコレートを渡すのだ。アルバイトで貯めたお金もあるし、高級ブランドのものをプレゼントしてもいいけれど、せっかくの機会だから愛情たっぷりの手作りチョコレートを食べてもらいたい。そっちの方がお互い思い出に残りそうだし。
そんなわけで一大決心。初めてのチョコレート作りに挑戦することにした。インターネットでレシピを探し、初心者でも作れて見栄えの良い、ちょっと手の込んだ印象のあるものを作ることにした。
先生にバレないよう、必要な材料や道具は当日になってから急いで買い揃えた。先生のイメージにぴったりな、夏空のような青色のラッピングボックスも買って、いざキッチンに向かう。先生に貰ったエプロンまで着けて、気合は十分だ。今日は平日だから、先生が帰ってくるまでには完成させたい。
「えっと、まずは……」
スマホでレシピを見ながら作ると、簡単な作業でも結構時間がかかる。しかし絶対失敗したくないので、面倒でもいちいち確認した。危なっかしい手付きで板チョコを刻み――これが地味に手間だった――、鍋に生クリームを沸かしてチョコとバターを加えて混ぜ、さらにブランデーを少々――ちょっと入れ過ぎたかもしれないが、まぁ良い。
バットにクッキングシートを敷いて――こんなものも初めて使った――、溶かしたチョコを流し入れる。平らに均したいのにゴムベラにチョコがくっついて綺麗にならず、仕方がないので程々のところで諦めた。あとは冷蔵庫に入れ、冷やし固める。今のところ完全にレシピ通りに進んでいる。いい感じだ。待つ間、洗い物を済ましておこう。
三時間ほど冷やしたチョコレートは、無事しっかりと固まっていた。慎重にバットから取り外し、なるべく隙間ができないようハート形に繰り抜いていく。型抜きがなかなか入っていかなかったり、チョコがくっついてしまったりして大変だったが、とりあえず全部抜けた。仕上げにココアパウダーを振るう。
「で、できた……!」
おれにだってバレンタインチョコが作れるんだ。あとは箱に詰めるだけ。ワックスペーパーなるお洒落な紙を敷き、その上にチョコレートを並べていく。割り箸を使って慎重に、丁寧に。最後に蓋を閉め、リボンを掛けて、シールを貼って。これで本当の本当に完成だ。長かった。半日もかかってしまった。初めての達成感に酔いしれる。
と、ちょうどいいタイミングで先生が帰ってきた。ガチャガチャ、と鍵が開いて、ただいま、と声がする。おかえり! と言って飛び出していこうとして、おれは不意に不安に駆られた。
今日がバレンタインで、しかも平日ってことは、先生は既に誰かからチョコを貰っているのではないか? だって先生、街角に立っているだけで女に貢物をされそうな見た目をしているもん。昨年や一昨年だって、おれが知らないだけでいっぱいチョコを貰っていたはずだ。今日もきっと、若い女の先生とか女子生徒とかから本命チョコを貰っているに違いない。
そう思うと、自分の作ったチョコレートが途端にみすぼらしく思えた。型抜きに失敗して形の崩れているものがある。ココアパウダーの振るい方にムラがある。色が茶色だけっていうのもとても地味だ。流行に聡い女子高生ならきっともっとカラフルに、写真映えするトッピングにも気を配るのだろう。おれはそこまで気が回らなかった。
仮にも恋人に渡すチョコレートなのに、こんなにつまらないものでいいのだろうか。先生、喜んでくれないかもしれない。ただでさえ舌が肥えているのに。大人の男なのに。やっぱりブランド品を買った方がよかったかな。そっちの方が簡単だし、味だって絶対に美味しいのに。今更ながら選択を誤ったかと後悔する。どうしよう。
「暁? どうしたんだ、珍しくエプロンなんかして」
一瞬のうちに様々なことが脳内を駆け巡ったが、とうとう先生に見つかってしまった。いっそどこかへ隠してしまおうと思い手に持った青色のボックスも、同時に見つかってしまう。どうしよう。今更隠すわけにいかない。でも先生に食べてもらうほどの出来じゃないから、渡すのも恥ずかしい。焦ってしどろもどろになる。
「あ、えと、これは、その……」
「……俺のだな?」
「えっ?」
「俺にくれるんだろう。もしかして、まだ完成していないのか? もう少し遅く帰った方がタイミングよかったか」
「あ……ううん、もう出来てる。ちょうどいいタイミングだったよ」
先生の声を聞いていると、みるみる心が凪いでいく。さっきまで一体何に動揺していたのか不思議になるくらいだ。
「……これ、先生に。バレンタインデーだから」
エプロンを着けたままキッチンで、なんて、色気も何もない渡し方だが、先生はありがとうと言って微笑み、受け取ってくれた。
「自分で作ったのか」
「うん。でも、初めてだから……」
「よし、なら早速食べよう」
「えっ、もう食べるの?」
「善は急げというだろう。暁もおいで」
エプロンを脱ぐ暇もないまま、リビングへ連れていかれた。ソファに座り、先生は丁寧に箱を開く。シールを剥がし、リボンを解いて。たった今蓋をしたばかりだというのにもう開けられてしまうのか、と妙な気恥ずかしさを覚える。
「ね、ねぇ、やっぱりその……」
「どうした。何か入れ忘れたか?」
「違うけど……目の前で開けられると、なんか、その……」
「……それなら、俺からも渡すものがある」
いつの間に用意されていたのか、ソファの向こう側から上品な風合いの手提げ袋が現れた。デパートとかで貰える、しっかりした作りのやつだ。
「これを君に」
「い、いいの?」
「バレンタインデーだからな。開けてごらん」
まさか先生から貰えるなんて思ってなかった。自分があげることばかり考えていて。
どきどきしながら紙袋を開くと、ハート形のボックスが入っている。珊瑚色というのだろうか、大人っぽいピンク色をしている。中身は一体何だろう。やっぱりチョコレートかな。先生のことだから、あっと驚くものを選んでいるかも。期待に胸を躍らせながらリボンを解き、箱を開けた。
「……!」
目に飛び込んできたのは、溢れんばかりの薔薇の花。鮮やかな真紅の薔薇が、箱いっぱいに敷き詰められている。甘く華やかな芳香が微かに匂い、うっとりする。
「何にするか悩んだんだが、欧米では花を贈ることが多いと聞いたからな」
「す、すごいよ、先生。こんなにいっぱいの薔薇、おれ初めて見た。すっごく綺麗!」
「ああこれ、実は本物の花じゃないんだ」
「そうなの? 本物にしか見えないよ」
「実は入浴剤なんだ。本物の花より長く楽しめるし、お風呂に浮かべて薔薇風呂にもできる。一石三鳥ってところだな。今度一緒に入るか」
「は、入るわけないじゃん! 先生のえっち!」
「そういうつもりで言ったんじゃないんだがな。何を想像したんだ」
「なっ……もーぉ、意地悪しないで。絶対そういうつもりだったもん」
だけど、緊張していた気持ちは一気に和んだ。
さて、再びチョコレート開封の儀に戻る。とはいえ、もうほとんど開かれている。最後の蓋を取り外せば、おれの作ったちょっと不格好だけど愛情たっぷりのチョコレートが姿を現す。ハート形はやり過ぎたかな、と改めて見て思った。先生も蓋を開けたきり黙っているし、ちょっと恥ずかしい。
「え、えへへ……は、ハッピーバレンタインだよ、先生」
「……これは……何というか……」
「先生?」
「……これは、かなり……」
嬉しい、と先生は片手で目元を覆って呟いた。
「はぁ……色々と予想はしていたが、思った以上に嬉しい。ありがとう、暁」
「先生……」
「いや、何だ。恥ずかしいな。三十年近く生きているのに、君から貰うチョコがこんなにも嬉しいなんて知らなかった」
緩んだ顔を見られたくないのか、先生は口元を押さえてそっぽを向いてしまう。おれだって、先生がこんなに喜んでくれるなんて思ってなかった。普段の凛々しい表情を崩してしまうほどに喜んでくれるとは。
「先生、嬉しい?」
「ああ、すごく。食べるのがもったいない」
「だめだよぅ、ちゃんと食べて。そうだ、おれが食べさせてあげるね」
照れる先生が珍しく、つい調子に乗った。チョコレートを一粒摘まんで、あーん、と口元に持っていく。先生は少し躊躇いつつ口を開け、ぱく、とおれの指ごと食べてしまった。指先をぺろりと舐められ、びっくりして手を引っ込める。
「ひゃっ!?」
「何だ、君が食べさせてくれると言ったんだろう」
「い、言ったけど、おれの指まで食べていいとは言ってない!」
「はは、すまない。もう一個食べさせてくれないか。次は指は食べないから」
先生はあっけらかんと笑う。さっきまで取り乱していたはずなのに、急にどうしちゃったんだ。これじゃあおれの方が恥ずかしい。でもすぐにもう一個食べたいってことは、味は悪くないってことなのかな。そんなことを思い、二個目のチョコを先生に食べさせてあげた。
今度は確かに指は食べられず、先生は唇で上手くチョコを挟んだ。と、次の瞬間。後頭部をぐっと押さえられ、少々強引なキスをされた。強引ではあるけど、蕩けるような口溶けの甘ぁいキス。先生の舌が砂糖より甘い。甘すぎて、ちょっと頭がぽやっとしてしまう。気のせいか、目も霞む。
「ん……これって……」
「美味いだろう。初めてなのによく出来てる。花丸だな」
砂糖よりも甘かったのは、チョコレートだったのだ。チョコを口移しで食べさせられた。舌の上で雪のように溶けていく。こんなにもいやらしいことを、先生は爽やかな笑顔でやってのける。
「……やっぱりえっちじゃん」
「えっちじゃないぞ。キスだけだ。もう一個食べるか?」
「……うん」
おれはあっという間に、先生が食べさせてくれるチョコの虜になった。先生がちょっとだけ舐めて溶かしたものを口移しで渡されると、それこそ瞬く間に蕩けていく。お互いに半分ずつ咥えて、チョコを溶かしながらキスをする。チョコレートを纏った甘く滑らかな舌を絡ませ、恍惚となる。唾液までチョコの味がする。
「んっ……せんせ、もっと……」
なんだか物足りなくて、自らチョコを唇に挟んで先生に口移しした。チョコと一緒に舌も滑り込ませて、先生の甘い口内を余すことなく舐めていく。舌先をちゅっと吸われると腰が痺れるけど、それでもまだ足りない。もっと欲しい。まるで媚薬でも仕込まれたみたいにいやらしい気分が高まる。
「せんせぇ……っ」
「どうしたんだ、暁。今日は随分積極的だな」
「んん……だって、なんか……」
とうとう先生を押し倒してしまった。こんなことって初めてだ。馬乗りになって腰を擦り付け、夢中になってキスをする。最早チョコなんて関係なくなっているけど、先生の口の中はまだまだ甘い。唇にも溶けたチョコがついているので、綺麗に舐め取ってあげる。
「っ……おれ、なんか変かも……頭、ぽわぽわするの。でも、先生といっぱいくっついてたくって……好き、せんせ、すき」
「暁……」
よしよし、と宥めるように頭を撫でられる。気持ちいい。先生の手、大好きだ。
「君な、ひょっとして酔っ払っているんじゃないか?」
「……酔って?」
「ああ。生チョコというのは大抵洋酒を入れて作るらしいが、君、使ったか?」
「よーしゅ?」
「ラム酒とかブランデーとかのことだ」
「……ブランデー、入れた」
「そうか。じゃあきっとそれのせいだ。君、酒は相当弱いみたいだな」
「そうなの?」
「ああ。どれくらいの量を入れたのか知らないが、俺は全然気にならなかったぞ」
そうなんだ、としか思わなかった。気分は風船みたいにふわふわ浮ついているし、興奮が冷めたせいか少し眠い。子供を寝かし付ける時みたいに背中を摩られているから余計だ。先生の手、好きだから、素直に瞼が下りてきてしまう。
はっと目が醒めた。小一時間が過ぎている。ずっとソファを占領していたらしい。寒くないように炬燵布団が掛けられ、足りない部分はブランケットで補われている。先生は寝間着に着替え、カーペットに直接座って夕飯を食べていた。山盛りの冷凍炒飯と鯖の味噌煮缶が食卓に並ぶ。
「おはよう。よく寝ていたな」
「ん……」
気分はすっかり落ち着いた。先生は酔っていると言っていたけど、本当にそうなのかどうか自分では分からない。あれが酒に酔うということなのだろうか。いやに大胆な気分になって、だけど人肌が恋しくて、先生とくっついていると安心した。とにかく変な感覚だった。
「先生……野菜も食べた方がいいよ」
おれはおもむろに立ち上がり、台所に立った。
「待ってて。すぐ作るから」
「すまないな」
「いいよ、ちょうどエプロン着けたままだし……それに、チョコのことばっか考えてて夕飯作るの忘れてたし。ごめんね」
「いいんだ。チョコだけで十分お腹いっぱいだったから」
「炒飯山盛りにしといてよく言うよ」
「いや、まぁ、それはそうなんだが」
先生は苦笑いする。
「でも、君の気持ちが嬉しくて満たされたのは本当だよ。チョコなんて貰い慣れてるが、恋人からのものは格別だな」
「ふぅ~~ん、羨ましい。先生、モテるもんね」
「自惚れが過ぎたな。今年は全部断ったから安心してくれ」
フライパンを掻き混ぜる手が自然と止まる。胸にぽっと灯りが灯ったような心地がする。
「……そうなの?」
「君がいるんだ。当然だろう」
「べ、別に、明らか義理チョコだったら貰ったって……どうせおれが食べるし」
「他の人から貰っても意味がない。君だけが、俺の特別なんだから……」
不意に、背後から優しく抱きしめられた。驚いて菜箸を落としそうになる。
「どっ……どうしたの、急に。危ないよ」
「いや……君が愛らしくて」
ふう、と熱を孕んだ吐息が耳たぶを擽る。誘われるように、おれの体温も上昇する。けど、どうしよう。エプロン着けたままキッチンでするなんて、変態みたいで嫌だ。
「せ、せんせ……」
「そう構えるな、今はしない。明日もあるからな。……ただし」
ぐ、と腰が密着する。
「週末、覚悟しておくように」
そう囁いて、先生は離れていった。ほうれん草のソテーは少し焦げた。今日はもう週の半分だけど、週末まで我慢できるかな。
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