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彷徨 2

「よお兄ちゃん。仕事を探してるんだって?」  小太りの男にそう声をかけられたのは、もう日も陰り始めた頃だった。 「仕事、あるんですか?」  昨日リンゴをひとつ食べてから、何も口にしていなかった。お腹がすいて身体がふらつく。僕にできる事ならなんでもやろうと思った。 「ちょっとそのフード外してみろ」  男は値踏みする様に僕の全身を眺め回して言った。スラムに入る際、僕は彼に倣って目深にフードを被った。彼ほどでないにしろ、僕も割合目立つ髪をしていたから。  言われた通りにフードを外すと、男は顎に手を置いてほう、と呟いた。 「ついて来い」  男が歩き出したから、僕も慌てて後を追った。仕事があるのか、と再び訊ねてみたものの、男はうんともすんとも言わない。  明らかに怪しい。多分、正常な思考回路が存在していたなら、いくら世間知らずの僕でも途中で引き返していたと思う。けど、残念ながら僕は腹ペコで、この男についていけば食い扶持が得られる。そんな事しか考えることができなかった。 「ここまでくればいいだろう」  男は探るように辺りに視線を走らせた後、奇しくも昨日の彼と同じような事を口にした。けど、その意味が全く異なっている事は明らかだった。僕はいつの間にやら、人通りのない路地裏へ連れ込まれていた。 「しゃぶってくれりゃあ、駄賃をやる」 「しゃ、しゃぶ……?」  男がお腹の辺りで手をごそごそさせていたかと思えば、何の躊躇もなく膝の上までズボンを下げた。 「あ……」  他人のその状態のそこを初めて目にして、僕は思わず声をあげた。自分もたまにそういう風になるから、その状態が何なのかは分かっている。けど、なぜ、今、僕の目の前でそうなっていて、なぜ、それを僕に晒しているんだ。 「早くしてくれよ、誰か来ちまう」  男はまた周囲をキョロキョロと見回して、早く早くと僕を急かしてくる。僕は思わず後退りした。 「金がいるんじゃないのか?」  男がずいっと僕に近寄った。すぐ近くに男の顔があって、下を向けば触れそうな距離に勃起したぺニスがある。僕は男を怒らせない程度にまた後退りした。  男に何を要求されているか分からない程うぶではない。何せ僕だってそこを刺激して勃起させることも、勃起した後に擦って精子を出すこともした事がある。男は、僕にそこを刺激させようとしているのだ。なぜ、僕に。僕も男なのに。 「あの、こう見えて僕は男なんですが」  そういう事かと思った。僕は女顔だとか綺麗な顔だとかよく言われる。女顔と言うのは殆ど陰口のようなものだって受け取っているけど、綺麗な顔というのがお世辞でなければ、男が勘違いしてもおかしくないのかもしれない。 「そんなこたあ分かってる」 「じゃあどうして僕にこんなことを……」  家庭教師は、女の人の事を考えながら擦りなさいと言った。いずれ、もう少し僕が大きくなったら、女の人にそこを刺激して貰って子供を作る事になるから、と。教師の言う通り、女の人の事を──その裸を思い浮かべながらすると、何も考えない時よりも捗った。覚えたてのすぐの頃なんて、他の事が手につかなくなるくらい僕の頭の中はその事と女の人の裸でいっぱいになった。 「坊主何も知らねえのか?」 「何をですか……?」 「お前みてえなオスガキ相手でも勃つ男はごまんといるってことをだよ」  初めてなら手コキで我慢してやるよ。言いながら男の手が僕の手首に伸びてきた。ゾワッと鳥肌が全身に走って、僕は反射的にその手を振り払った。後は本能のままに足を走らせて、逃げ出した。後ろで男が怒鳴り声を上げていたが、膝に引っ掛かっていたズボンを上げる手間分、僕の方が有利だった。こんなに全速力で走った事はない──いや、昨日も走った。あの時といい勝負だ。  人通りの多い通りに出て、息を整えるよりも先にまずフードを被った。ここまで来る途中で、男は僕を追い掛けるのをやめた。それには気付いていたけれど、どこで鉢合わせるか分からない。  息が整った後も、心臓のバクバクは治まらない。僕で勃起する男がいる。あいつだけじゃない。あの男は、そういう男が沢山いると言った。それはとても怖いことだ。漠然とそう思った。ここで狙われ奪われるものが金品や高価な服以外にもあって、それが僕自身であるということなんだから、そんなの怖いに決まってる。道行く人皆の視線が恐ろしくなって、僕は挙動不審な程辺りを警戒しながら歩いた。目的地はなかったけれど、じっとしていたらまた誰かに声をかけられそうで怖かった。  少し時間がたって気持ちが落ち着いてくると、ぐーぐーと不満を訴えてくるお腹が気になって仕方なくなった。手に力が入らなくなって、足が縺れる。それでも微かに感じたいいにおいに吸い寄せられる様にふらふらと歩みを進めると、そこは食堂だった。店の裏のバケツを、みすぼらしい身形のおじいさんが漁っている。ここスラムにも上と下があるのだ。こういうお店で食事ができる人間もいれば、ゴミを漁って生きる人間もいる。一文無しの僕は確実に後者だった。お金を稼ぐ手段すら見つけられていないのだから。  僕はおじいさんの後ろに並んだ。生きるためには、そうするより他なかった。おじいさんは僕に気付くと、哀れむ様な目を向けてきた。おじいさんは僕を自分より下と見た様だ。バケツの前から退いたおじいさんが、両手に掴んでいたパンを少し吟味して気持ち小さい方を僕に差し出してきた。 「いいんですか?」  おじいさんは何も言わなかった。僕はお礼を述べてそれを受け取った。誰かのかじりかけ、しかも何かの汁を吸って濡れているそれはとても美味しそうな代物とは言い難かったけれど、お腹の足しになるのなら何でもよかった。バケツの前で立ったままパンを食べて、食べ終えた後にバケツの中を漁ってみた。おじいさんがよく探した後だったのだろう、食べられそうな残飯はもうなかった。  食堂は夜はお酒を出す店になる様だ。夜も煌々と明るくて安心できたため、今夜はその光の届く所で夜を明かす事にした。お店のお客さんやらで人通りが多くて、人の視線は怖かったけど、人通りのない真っ暗な所で僕を獲物にする様な男と出会す可能性を考えればここの方がよっぽどいいと思えた。

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