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契約 1

 太陽が海の向こうに半分沈んだ頃。人の気配がして振り返ると、ちょっとした行列がスロープを下りて来るところだった。 「あっ……」  その一番先頭の人物と目が合って僕は思わず声を上げてしまったけど、相手は眉を潜めただけだった。何事もなかったかの様に僕の前を通りすぎて行った彼を見送る様に一行を眺めた。屈強な男と恰幅のいい商人風の男。それに荷物持ちのみすぼらしい男が何人か。屈強な男は、恐らく商人が連れてきた護衛だろう。こんなスラムでも、一応貿易が成り立っているということなのだろうか。  そんな事より何より、この中に彼がいた事が驚きだった。僕は船から彼が下りて来るものとばかり思っていたから、まさか背後から来るなんて思いもよらなかった。  船に乗るのでなければ、彼は再びここを通る。港からスラムへと戻る道は、この崩れかけたジグザグのスロープしかないからだ。僕は祈るように一行を見守った。彼は商人を船着き場まで送り届けると、一言二言話した後に商人から何か(恐らく給与だろう)を受け取ると、船に背を向けた。彼と同じく現地調達で雇われているであろう男たちが荷積みを手伝う横を通り過ぎて、彼がこちらへ向かってくる。意外と早かった。僕は慌ててフードを外して彼が登ってくるのを待つ。 「リュカ!」  僕を無視して通り過ぎようとする彼を大声で呼び止めると、彼は立ち止まって肩を竦めた。今僕が着ている深緑色の外套も似合ってたけど、今日着ている灰色の外套もよく似合っている。それにもフードは付いているけど、被ってはいない。 「……お前に名乗った覚えはないんだがな」 「よかった。僕の事忘れちゃったのかと思ったよ」 「あと数日もすれば忘れてただろうけど」 「覚えてくれてる内に会えてよかったよ」  にっこり笑ってみせると、リュカはめんどくさそうに一息吐いて目を伏せた。次の瞬間向けられたのは、さっきとは打って変わって鋭い視線だった。 「何でまだこんな所にいる。お家に帰ったんじゃなかったのか」 「帰らない。帰れないんだ、僕には僕なりの目的があるから」  この間は、この視線と冷たい口調に見事に黙らされてしまったけれど、今日は言葉を返せた。何となく、我が子を千尋の崖に突き落とす獅子を連想してしまったのは、あまりに都合のいい妄想だろうか。 「下手な意地を張ってないで早いとこ帰れ。お前みたいな奴、ここでは命がいくつあっても足りねーぞ」  睨みが効かないと思ったからか、今度は諭すような調子で語りかけられた。やっぱり、リュカの冷たい態度はポーズなのだ。それが今はっきりと分かって、僕の心に少し余裕が生まれた。 「お前の身内も、きっと心配してる」  リュカは僕が親子喧嘩でもして家出してきたとでも思っているのかもしれない。それは半分正解で、半分不正解だ。 「僕は弱いし、不器用で世間知らずのいいカモだ」 「……外から来た奴は、大抵みんなそうさ」 「昨日一日で思い知ったよ。今の僕にはここで生きていく力がないんだって」 「できれば初日に気付いて欲しかったぜ」 「昨日の晩御飯は、食堂のゴミ箱の残飯だった」 「まじか」 「流石に惨めだった」 「だろうな」 「男の人に買われそうにもなったんだ」 「……ここはそういう場所だ」 「うん、怖かった」 「なら、もう分かったろ。とっとと家に帰りな」 「それでも僕は、ここに残るって決めた」  無言になったリュカは、少ししてから諦めた様にため息をついた。もう何を言っても無駄だと思った様だ。 「じゃあせいぜい死なないようにがんばれよ」  そう言うと、何の迷いもなく僕から身体を逸らして歩き始めた。 「ね、どこに行くの?」 「ついて来るな」  慌てて追い縋った僕に掛けられたのは、またあの冷たい声。一瞬動きが止まりかけたけど、僕はめげない。 「あのね、僕、リュカに助けて貰いたいんだ」 「断る」 「ええ、即答?もう少し考えてくれてもいいじゃないか」 「泣きつく相手を間違ってる」 「君以外誰がいるって言うの?」 「家に帰ってママのおっぱいでもしゃぶってろ」 「ママはもう死んじゃった」 「……悪い」  リュカは時々口が悪いし、鋭い目付きで睨まれると少し怖いけど、自分に非があると感じた時はこうしてすぐに謝れる潔い人だ。それって単純な事だし口で言うのは簡単だけど、実践するのはなかなかに難しい。そういう事をさらっとやってのけるリュカは凄いなって思う。

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