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アンリとハンナ
リュカとの生活は、ここがどういう所かを忘れてしまいそうになるくらい平穏だった。同じ集落のご近所さんも気のいい人達ばかりだ。所謂平民の人たちを、僕は一方的に粗野だとか乱暴だと誤解していた。確かに話し方や仕草にそういう一面はあるけれど、それだけで人間の価値を図るこがいかに馬鹿馬鹿しいことなのかという事も、僕はここに来なければ知れなかっただろう。
「ルーシューー!」
風呂に水を張るために井戸と家を往復していたら、可愛らしいソプラノボイスが近づいてきた。この集落は丘を切り崩して段々になった土地に家が建っている。走り寄ってきたのは、一段上の家に住む少年、アンリだ。
「アンリも水汲み?」
「うん!」
「偉いね。手伝おっか?」
「いい。だいじょーぶ」
アンリは両手に下げた水桶をぶんぶん振り回して、オレは力持ちだからな、と得意げに歯を剥きだした。
「アンリの家は井戸から遠いから大変だね」
「うん。だからオレとハンナでかーちゃんを手伝わないとな」
「えらいね。あれ?ハンナは?」
そう言えばいつも一緒にいる妹の姿が見えないな、と思っていたら、
「おにいちゃーん!まってよー!」
水桶を一つ下げた妹のハンナが坂道を走って下ってくるのが見えた。
「ハンナ!はしるな!あぶないぞ!」
言うが早いか、ハンナがつんのめった。顔面から派手に転んだハンナは、当然の如く大きな泣き声を上げた。桶を放り投げたアンリが慌ててハンナに駆け寄っていく。僕も後を追った。
「だから言ったろ!ハンナはいつまでたってもドジなんだから」
「うえーん!ごめんなさあい」
「しょーがねーなあ。ほら、見せてみろ」
ハンナがひっくひっく肩を震わせながら顔を上げた。顔から転んだと思っていたが、とっさに手をついていたらしい。よかった。顔に大きな傷はない代わりに、手は痛々しく擦り剥いていて、膝からも血が滲んでいる。
「立てるか?ほら、にいちゃんの肩につかまれ」
ついてきたはいいけど、この立派なお兄ちゃんを前にしてはここでの僕の役目はなかった。
「僕、包帯探してくる!」
ハンナがアンリに肩を借りてびっこを引きながら井戸まで移動するのを横目に家まで走った。包帯の仕舞い場所は知らないけど、リュカの家は物がほとんどないから探し物は楽だ。当てをつけたクローゼットの中の引き出しを開けてみると、中でカラカラ、と何かが転がる音がした。そこに目的のものはなかった。黒くて大きくて、変わった図柄が細工された特徴的なボタンがただひとつだけ入っていた。なんだろ、これ。手に取って少し眺めてからそんな場合じゃないことを思い出して、慌てて元の引き出しに戻した。目的の包帯はその隣の引き出しですぐに見つかった。急いで井戸まで引き返す。
兄弟は、井戸の水で擦りむいた両手と両ひざを洗っているところだった。水が滲みるのだろう。ハンナが痛い痛いと泣くのを、アンリが優しくいたわりながら手当てしている。なんて美しい光景だろう。僕がいた世界は、キレイなものにあふれていた。けど、そのキレイなものたちは全部作り物だったんじゃないかって、ここで暮らしていると思ってしまう。
砂利や砂を洗い流した手足を僕が持ってきたタオルでそっと押さえて水滴を拭う。そのままアンリに任せてもよかったけれど、包帯を巻くのはこの中でも一番大人に近い僕の役割かなと思ってやってみた。が……。
「ルーシュ、へたくそ」
子供は正直だ。ハンナの口から出たその感想は無情だけれど実に的を射ている。
「あれ、おかしいなあ……」
僕だって子供の頃は走って転んで膝を擦りむいた事くらいあって、包帯を巻いてもらったことも何度かある。だから、見よう見まねで何とかなるんじゃないかって思ったんだ。
「何で上手くいかないんだろう……」
「オレがやるよ」
根気強く見守ってくれていたけれど、何度巻きなおしても改善の余地がない事に流石にしびれを切らしたのだろう。頼れる兄貴アンリが僕に代わった。まだ10歳にも満たないアンリは、僕よりもよっぽど上手に仕上げた。うう。立つ瀬がない……。
「水は僕が運ぶから、アンリはハンナに肩をかしてあげて」
3つ一緒には運べないから初めはふたつ。アンリが気を使ってきたけど、もう一往復して3つの桶をアンリの家に届けた。アンリ達に聞いたのか、帰りがけにお母さんが外に出てきて丁寧にお礼を言われた。そんなに大層な事もしていないというのに、お土産にジャガイモをひとつ頂いてしまった。
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