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世界が灰に染まった日 12

「お前は俺のオンナになれ、リュカ」  結局朝までぐっすり眠ってしまったあの日、帰る直前に次に来るべき日を指定された。それが今日だ。実際に客を取らされるのだろうと今日までに色んな覚悟を決めていた。が、3階の応接室に入ってすぐだった。シダにそう言われたのは。 「は……?」 「客は取らせねえ。ただし、俺の呼び出しには必ず応じろ」 「いや、意味がわかんねえ。俺をどうするって?」 「俺が専属で抱いてやるって言ってんだ」 「専属…………いや、ちょっと待て。俺の仕事はどうなる?」 「なんだお前、客取りたかったのか?」 「そういう訳じゃねえけど……」  当然、身体を売らなくて済むならその方がいいに決まってる。けど、シダがいちゃもんつけていた俺の借金はどうなる?客を取らなきゃ、新たな金は生み出せない。 「俺のオンナになるなら借金はチャラにしてやるし、このシマで好きに商売して構わねえ」  口に出した訳じゃなかったけれど、シダは俺の疑問に的確に答えた。それってつまり……。 「これまで通りスリで稼いでいいってことか?」 「ああ好きにしろ。あとな、それ」  シダがテーブルの上の黒くて四角い小さな箱を顎で指し示した。 「開けてみろ」  言われた通り手を伸ばした。持ち手部分についている金属の金具を外し、パカッと上の部分を持ち上げて鞄を開いた。そこには銀貨と銅貨がぎっしりと入っていた。 「これ、なに……?」 「お前の初めてを貰っちまった詫びみたいなもんだ。受け取れ」 「え……」  嘘だろ。だって見たこともない程凄い大金だ。幾らあるのか数えるのさえ相当の時間を要するだろう。普通に生活するだけなら数ヵ月は遊んで暮らせてしまうかもしれない。 「そんだけありゃあ、しばらくお前と妹が食っていくには充分だろ」 「な……何でそれ……!」  妹の……ニナの存在は言わなかった筈。まさか頭が朦朧としておかしくなった時にでも口走ってしまったのか……? 「部下に調べさせた」 「な……っ」 「心配すんな。病弱な妹をどうこうしようなんざ思ってねえ。ただし、医者は変えろ」 「は……?」  予想外の展開すぎて、脳ミソがうまく働かない。 「お前、上層の医者に騙されてんぞ。ガキだからな。見くびられてんのさ。薬代も治療費も、普通の倍以上吹っ掛けられやがって」 「そんな……」  母親がどこからニナの薬を調達してきていたかも知らなかったから、薬がなくなった後からずっと上層の医者にかかっていた。スラムにいる医者はみんなヤブ医者に見えたから……。 「次からは俺の紹介する医者にかかれ。大丈夫、腕は確かだ。代金の心配はいらねえぞ。全部俺に請求する様に言ってある」 「は……?」  いやいやいや、おかしいだろ、それ。男の顔をまじまじと見る。冗談を言ってる様には見えない。 「何でそこまでする?何が狙いだ」  他人からの親切を何の見返りもなしに受け取れるほど俺は鈍感じゃないし、平和ボケもしてない。 「ガキだからな。また騙されんとも限らねえだろ?」 「そういう事言ってんじゃねえよ。お前が俺の為に金を出す意図が読めない。見返りに何を求めるつもりなんだ」 「見返り、ねえ」 「とぼけんな。俺から金毟り取ろうと躍起になってた奴が、一体どういう風の吹き回しだ?」 「病弱な妹一人で支えて頑張ってるお前へのご褒美ってとこかな」 「は?」 「あとはそうだな。お前が気に入ったからだ」 「はあ?」 「他の男に触らせたくなくなった。ただそれだけだ。お前を金で買うつもりはねえが、お前が見返りがどうのとか気にするなら、その金は前金だと思ってくれても構わねえ」 「お前が、俺の客になるって事か……?」 「俺にそんなつもりはねえけどな。ま、ガキには理解できねえ話だったか」  訳が分からない。ともかく俺が客を取るって話はなくなって、けどその代わりにこいつが俺を買うから、その分を前金で受け取っておけって話でいいのか?別にこれまでにスリで得ていた稼ぎ以上の金はいらないけど、この申し出を断ればスリを働く許可は貰えないのだろう。「俺のオンナになるなら」って条件つけてたし……。 「医者にかかる金も、前金の内って思えばいいのか?」 「ああ……まあ、そうだ」  なんか歯切れが悪い。はっきりしない。けど、それを条件にスリを見過ごして貰えると言うのなら、俺に選択肢はない。この話に乗るか、それとも路上で自ら春を売るか。それしか俺にできる仕事はなくて、金が稼げなければ俺もニナも野垂れ死ぬ未来しかない。 「途中で飽きたとか言われても、貰った金は返さねえからな」 「安心しろ。それはねえから」  俺の言葉のどっちに対しての「それはない」なのだろうか。後者であって欲しいけど……。 「分かった」 「契約成立、って事でいいか?」 「ああ」 「今の返事忘れるなよ。お前は今日から俺のオンナだぜ、リュカ」    こくりと頷く以外出来なかった。俺にとってそれは、生きるための契約だったからだ。

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