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この感情の名前は 2

 昼前になって漸く目を覚ましたリュカは、時計を見て慌てて起きだすとスープも飲まずに顔だけ洗って出かけて行った。いつも必ずやってた髪の毛のセットもせずに。  今日も仕事だったんだ。知ってたら寝顔を眺めてないで起こしたのに。ちゃんと間に合ったかな。大丈夫かな……。考えながら洗濯をしていると、ノックが聞こえた。返事をしてドアを開けるとアンリが立っていた。 「来たぜ」 「アンリ、おはよう。早いね」 「おはようって、もう昼だぞ」  アンリが子供を叱るように両手を腰に手を当てた。お母さんの真似事だろうか。何にせよ微笑ましい。それにしてもアンリの言う通り、もう昼を過ぎている。リュカが目を覚ましたのがさっきだったから、僕の一日はついさっき始まったような気がしていた。 「ごめん、今洗濯の途中なんだ。終わるまで中で待ってて貰える?」 「うん、いいよ」  アンリを家に招き入れて、浴室に向かった。浴槽に貯めてある残り湯で手早く衣服やタオルを濯いでいく。 「え……これもしかして紙!?」  アンリが浴室まで聞こえる大声を出した。その喜びようが目に浮かんで頬が緩む。 「なあルーシュ!どうしたんだよ、これ!」  待ちきれなかったのか、紙と鉛筆を摘まんだアンリがこっちまでやってきた。その顔は喜びというより驚きだ。 「リュカが買ってきてくれたんだ」 「買ってきた?え、ここに売ってんのか、紙なんて。オレ初めて見たぞ!」 「そうなの?あ、でも確かにリュカの家にもなかったね」 「だってコウキュウヒンだそ、こういう紙は」 「そうなんだ」 「そうなんだって、ルーシュ。お前ナニモンだ!」 「あはは……」  紙が高級品だなんて、考えたこともなかった。僕の周りに紙はありふれていた。勉強をするためのノートに教科書。物語が綴られた本に、絵が沢山描かれた子供向けの絵本。他にも沢山、数えきれないだけの紙があった。それを恵まれている証拠だなんて、一度も思ったことはなかった。あるのが当たり前だと思っていた。  洗濯物を外に干し終えて家に戻ると、アンリはまだすげーなと繰り返しながらしげしげと紙を眺めていた。僕が鉛筆を握ると、これ汚しちゃうのか?と不安そうに聞いてくる。 「リュカがせっかく用意してくれたんだから、眺めるだけじゃもったいないよ」 「う、うん。そうだな。うん」  ようやく使う覚悟がついたらしいのを確認して、まずは手本になる様、AからZまでを横に並べて書いた。aからzまでも同様に。そうして初めにそれぞれのアルファベットの読み方を教えた。何もかも初めて見るアンリにはさぞ大変だったろう。昨日みたく夕暮れ時になるまで根気強くがんばって、全てのアルファベットの読み方を完璧に覚えられた。普通は一日で詰め込むものではないそれを挫けずやってのけたアンリの本気度は言わずもがな。  実を言うと、途中で「飽きた」とか言うんじゃないかって無用な心配を少しだけしていた。リュカが折角ここまでしてくれたんだから意地でも頑張って貰うつもりだったけど、九才と言えば遊びたい盛りだし、勉強の時間が面倒に思えて仕方ない時期だ。少なくとも僕はそうだったから。 「なあ。これ、持って帰ったら駄目か?」  帰り支度を始めたアンリがこれ、と指したのは、僕がアルファベットの見本を書いた紙だ。 「家でも勉強するの?」 「とーぜん。それに、ハンナにも教えてあげたいし」  得意気に言うアンリはやっぱりいいお兄ちゃんだし、僕と違って勉強熱心だ。断る理由もなくアンリに紙を差し出す。 「ありがとう!また明日も来ていいか?」 「もちろん。明日は書く練習をしてみようね」 「おう!楽しみだ!」  じゃあな、と元気に帰っていくアンリの背中を見ながら、僕は実に晴れ晴れとした気分だった。僕にできる事どころか、僕にしかできない事が漸く見つかったのだ。それが、リュカの役に立てる事ではなかったのが少し残念だけれど。それでも自分の存在が誰かの役に立つのは単純に嬉しい。きっとリュカだって喜んでくれる。  リュカ。頭の中でその名前を呼ぶだけで見える景色が鮮やかになって、胸の中が甘くくすぐったくなる。  僕は今日一日かけてゆっくり自分の気持ちを噛み砕いて、整理して、そして理解した。僕はリュカに恋をしている。僕はリュカの事が好きなんだって。

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