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この感情の名前は 3
昨日の残した分は僕とアンリとでおやつの時間に平らげて、また新しくキャベツのスープを作ってリュカの帰りを待つ。
今日の話をするのが楽しみだった。紙を見つけたアンリの目玉が飛び出しそうなくらい驚いた顔や、今日一日でアルファベットを読めるようになったこと。アンリがすごい集中力で頑張っていること。リュカのおかげで勉強がものすごく捗っていること。明日は文字を書いてみるんだってこと。リュカに話すことを沢山用意していた。のだけど……。
「おかえりリュカ!……ってその頬どうしたの!?」
帰って来たリュカの頬に殴られた様な痕を見つけて、その全てはどこかに吹っ飛んだ。
「遅刻したからな」
「え……それで殴られたの!?」
「まあ、荷物運ばない俺を元々よく思ってない連中もいるし。仕方ねえよ」
「そんな……そんなの酷いよ!リュカはリュカの仕事をしてるだけじゃないか!寝坊しちゃう事なんて誰にでもあることだし!」
「あっちゃいけねえんだよ」
「じゃあ、もし体調を崩したりしてたらどうするの?」
「這ってでも行くさ」
「そんな……」
「当たり前の事だろ。クビにされなかっただけラッキーだった」
働くって、そういうものなの……?僕は個人的にはおかしいと思うし、そんなことでリュカを殴った奴を許せないって思うけど、僕はこの世界の常識を何も知らないから……。だから、リュカに何も言ってあげられなかった。殴られて当然だって。寧ろラッキーだったってあっけらかんと話すリュカを慰めるのもおかしいし……。けどやっぱりリュカの綺麗な顔に傷をつけるなんて許せない。
「すごく痛そうだ……。僕に何かできることはあるかな。あ、冷やそうか!井戸の汲み立ての水なら結構冷たいんじゃないかな!」
思いついて駆け出そうとした肩をリュカに掴まれた。
「いい。もう大して痛くねえから」
そうは言うけど、頬が一部紫色になっているし、唇の端が少し切れている。本当に酷い。こんなのが痛くない筈ない。僕だったら泣いてる自信がある。殴られるって事実がまず怖いし悲しい。
「ごめんね……。僕がはしゃいで変な時間に起こしたせいだ……」
「関係ねえよ。あの時起きてなきゃどうせ間に合ってなかったんだから、二度寝した俺の責任だ」
けど、自分のタイミングで目を覚ましてれば二度寝せずに済んだかもしれない。リュカがどう言おうと、この一件は僕の責任でもある。
リュカの頬にそっと手を添えた。もう熱は持っていない。明日には青痣も引いてくれればいいんだけど。切れた口の端で血が固まって赤黒い小さなかさぶたができている。指先でそこに触れると、リュカの肩がぴくっとなった。
「ごめん痛かった?」
「……べつに」
リュカが喋ると、小ぶりな唇が動いてその隙間から白い前歯と赤い舌がちらりと覗く。そんな当たり前のことから今は目が離せなかった。僕が知らないこの唇を、いったい何人の女や男が知っているんだろう。リュカの唇はどんな感触がするんだろう。好きな人と、リュカとキスをしたら、どんな気持ちになるだろう……。
「おい……」
非難するというよりも戸惑ったような声だった。その声に僕は自分が何をしていたのか気づいた。
「ご、ごめんっ!」
慌てて、リュカの唇から指と視線を引き剥がす。僕はあろうことか、ずっとリュカの唇を指先で撫でまわしていたのだ。多分、物欲しそうな顔をして……。
「お……おおお、お腹空いたよね!?リュカ、朝ごはんも食べずに行っちゃったから!また、キャベツのスープ作ったんだ!食べよっ!」
何とか誤魔化そうと必死だった。だってあんな触れ方は絶対におかしい。僕のこの想いをリュカに知られたら、気持ち悪がられて追い出されてしまうかもしれない。あああ、もう。僕はなんて軽率なことを……。
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