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微笑みの理由 2

「あたしの事覚えてる?」  通りでそう話しかけたあたしを、彼は綺麗にシカトした。男に声を掛けてそんな態度を取られたことなんてこれまでなかったから、あたしはショックでそれ以上話しかける事ができなかった。  もう彼の事は忘れよう。あたしを助けてくれた優しくて格好よかったあの少年は幻想だったのだ。そう自分に言い聞かせていたある日、彼が店にやってきた。彼は、驚きつつも平常心で接客するあたしを少し前にシカトしたことなんて微塵も覚えていない様だった。 「あの、あたしの事、覚えてますか?」  少しびくびくしながら、彼にもう一度聞いてみた。彼はカウンター席でウイスキーを傾けながら首を傾げた。 「悪いけど……」  通りで会った時と違って、素っ気ないながらも会話してくれたことに安堵して、あたしは思い切って彼の隣の席に腰かけた。 「この間、通りでもそう話しかけたの。それなのにあなた、あたしの事無視したのよ」 「通りで?……ああ、悪い。多分客引きか何かと勘違いしたんだ」  彼、間違いなくモテるし、商売女だって彼みたいな客はかなりの大当たりだろうから、きっとよくしつこい客引きに遭うのだろう。それなら、レディにあんな態度取るのも仕方ないのかも。  ……それにしても顔がいい人って本当、得してる。彼に幻滅していたことなんか綺麗さっぱり忘れて、そういう事だったのね、とこうも簡単に納得してるんたから。   「二年前、あたし路地裏でフードを被った少年に助けられたの。あれはあなたで、間違いないわよね」 「……あんたの事は覚えてねえけど、そうかもな」 「お礼がしたくてずっと探してたの」 「別にいい。わざわざお礼なんて」 「けどあたし、あの時あなたに助けて貰えなかったら今頃こんな風に元気に働けてなかったかもしれない。感謝してるの、本当に」 「そうか。まあけど気にすんな。放っておいたら寝覚めが悪いからやってるだけで、深い意味はねえから」  この人、あたし以外も沢山あんな風に助けてるのかもしれない。だからあたしの事覚えてなかったんだ。日常的に人助けするイケメンって、一体どこのおとぎ話から出てきたのかしら……。 「そう言われてもあたしの気が収まらないの。今日の飲み代くらい奢らせて」 「あんたに奢られなくても多分……」 「え?」 「いや、なんでもない。あんた、そろそろ仕事に戻れよ。俺もやる事あるから」  首を傾げていたら、あっち行け、と直球で言われて、あたしは愕然とした。何度も言うようだけど、あたしは男にこんなぞんざいな態度を取られたことはないのだ。  やっぱり彼はおとぎ話から出てきたイケメンなんかじゃない。都合よく現れてお姫様を助けて、その後もお姫様に都合よく尽くしてくれる優しいだけの王子様じゃないみたいだから。  落ち込みながら客の相手をしていると、いつの間にか彼の隣には貴族の女が座ってた。一瞬、恋人かと思ったけど、すぐに長年の勘で違うと分かった。あれは、有り体に言えばナンパだ。  彼はあたしと話す時とは別人の顔をしていた。薄い微笑を口元に貼り付け、誘惑する様に身体を寄せ付ける女とわざと視線を交えずに話している。あしらうようにも、受け入れるようにも取れる絶妙な態度と距離感で。  あたしだって貴族に誘われる事があるから分かる。あれは、駆け引きをしているのだ、と。自分を安く売らないために。できる限りの高値で売れるように。  彼は間もなく女と連れ立って店を出た。彼の酒代は、女が持った。「あんたに奢られなくても……」っていうのは、こういう意味だった。彼はそういう目的で今日ここに来たのだ。

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