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ただ前だけを見て

 僕は遅すぎる。本当に何もかもだ。  あれから数日、王宮の部屋に閉じこもって何もせずに死んだように過ごした。そんなある日、何のきっかけもなくふと気づいたのだ。嘘な筈ないって。  だって、お金が欲しかっただけなら、あんなに僕に優しくしてくれる理由って何。僕が他所に行くことを恐れた?いや、そうだとしたって必要最低限の世話さえしていればよかった筈だ。そもそも、リュカがいつ僕を王子だと疑い始めたのかは分からないけど、少なくとも僕を保護してくれた当初は知らなかったはずだ。  それに……それに、こんな風に客観的に言える事だけじゃなく、リュカのあの態度のすべてが嘘だったなんて思えないのだ。僕を求めてくれた声が、僕の髪を梳いてくれた指が、僕に「キレイだ」と言ってくれた眼差しが、全部嘘だったなんて、そんな事あるわけない。稀代のペテン師でなきゃ、あんな風に自分を偽り続けられないと思う。リュカがその稀代のペテン師じゃないって保証はないけど……。  けど、あの日ロレントが言った、「あの者はペテン師などではない」って言葉が、僕は真実なのだと思う。リュカはペテン師なんかじゃない。リュカがあの日僕を拒絶したのは、僕に嘘をついたのは、僕を思っての事だった。そう、あの日の言動こそが、リュカが僕を利用するつもりなど欠片もない事を証明していたのだ。それをロレントは察知して、ああ言った。僕は遅すぎる。ロレントの言葉の意味に気づくのも、リュカの気遣いに気づくのも、遅すぎる。  もしもあの日に戻れるなら、膝をついた自分を殴りつけたい。「立て!追いかけろ!」って喝を入れたい。悔しい。戻りたい。会いたいよ……。  毎日毎日これ以上ないって程後悔し尽くしているけれど、苦しいけれど、もう一秒だって俯いている時間はない。リュカに再び会うためには、ただひたすら前を見て進むしかないのだ。  どうか、どうか無事でいて。祈りながら毎日を過ごした。もちろん、ただ祈っているだけじゃない。スラム通いもまた再開させたし(シダにはすごい剣幕で叱られた。当然だ)、奴隷商の事もまた調べ始めた。  調べる様になって初めて分かったことだけど、ここデルフィアには、大小合わせて膨大な数の奴隷を扱う組織がある。表向き、国はデルフィアの人間を奴隷にすることや人身売買は禁じている。奴隷の扱いを受けるのはあくまで我が国が支配した他国の人間だ。あくまで表向きは。嘆かわしい事に、実際はデルフィア人奴隷のやり取りも当たり前の様に横行しているのが現状の様だ。  では他国の人間なら奴隷にしてもいいのかと問われるとそれだって人道に反した行為で許されることではないと思う。いつかはこの国の人間も支配国に住む人間も区別なく全ての人権が尊重される様になれば一番いいと思っている。けれど、支配国の人間は奴隷扱いしてもよいという固定観念を一気にひっくり返すことは口で言うほど簡単な事ではないだろう。  奴隷商をはじめ、肉体労働など、奴隷ありきの商売を行っている人間がこの国には沢山いる。多くの貴族も使役や愛玩などの目的で奴隷を所有していると聞く。すべてを覆すことになればそういった人たちからの反発は必至だ。僕の意見に耳を傾けてくれている父王も、奴隷縮小の方向で舵を切ってくれてはいるものの、廃止までは……と二の足を踏んでいる。父王の気持ちも、そうせざるを得ない理由も分かる。やはり、現実は夢物語の様に簡単にはいかないのだ。長い時間をかけて人々の人権意識を育て、徐々に奴隷離れを進めていくしかないのだ。  なぜ父が、元々僕に甘かったとは言えそこまで僕の意見を聞いてくれるのか。それはそもそも、僕が家出をした経緯にある。  デルフィアの人間が奴隷になることなどあり得ないという、表向きの綺麗な世界しか知らなかった僕は、ある日城下町で奴隷の少女に縋られたのだ。「助けてください」と。奴隷になるのは他国の人間の筈なのに、あまりに言葉が綺麗で驚いた。そして、薄汚れてはいたが見た目も、周辺国に多い浅黒い肌ではなく、デルフィア人特有の白い肌をしていた。  僕は少女の手を引いて父王の元まで連れて行くと、父を問い質した。どうして、我らが民であるこの少女が奴隷として働かされているのか、と。父王は平然と言った。「その者が志願したのだろう。そうでなければ親に売られたのだ」と。  酷く、失望した。奴隷に志願するものなどいるものか。それにデルフィア人の人身売買は禁じられている筈なのに。反発する僕を、父は一蹴した。「外の世界を何も知らない癖に騒ぎ立てるな」と。確かに僕は何も知らなかった。この国の綺麗な面しか知らずに育ってしまった。  「そうですね」父にそう答えて、少女を僕の侍女として召し抱える許可を貰った後、僕は家出をした。このまま王宮にいては、僕は立派な裸の王様になってしまうと思ったのだ。外の世界へ出れば、この国の裏の顔も知れるだろう。そして、いつか僕が国王となった暁には、この国が抱える膿を全部絞り出して、デルフィアをよりよい国にするんだ。その決意だけを胸に秘めて、僕は馬車の荷台に忍び込んだ。

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