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十六夜の月に濡れて⑤
「でも、そなたは……我と同じように皮衣を着、我の皮衣を褒めてくれた。
我と同じように、歌は詠まぬと言うた。
我が返事をせずとも、怒りもせなんだ」
俺は黙って、ただ彼の言葉を聞いていた。
「共に居て、そなたほど安らぐ者は今までおらなんだ。そのような、そなたが……我の『をのこ』なるを知れば、もう二度とそなたも、我に会いに来なくなろうぞ」
彼は、自分の顔を俺に見せるように扇子を閉じた。
「されば、悲しくない訳が無かろう……そなたが二度と来ぬと思えば、悲しくないわけが無かろう?」
宮さまがなぜ、女性として育てられたのかは知らない。でも、きっとこの『姫君』は、自分の価値観を他人に否定され続けてきたのだろう。そして、男性としての自分を他人から隠してきたのだろう。気高く振る舞うことで。
でも今、宮様は、俺を真っ直ぐに見つめ泣いていた。
碧眼からあふれる涙は、止まることなく後から後からこぼれていく。彼はそれを拭こうともせず、ただ真っ直ぐに俺を見つめていた。
俺の顔を、その眼に焼き付けようとしているかのように。
やっと、わかった。俺がここに来た理由が。
「でも俺は、君に会いに来た」
「なにゆえ?」
「わからない。でも、理由なんかいらないと思う。ただ、君と会いたい、そう思った」
涙で濡れた彼の顔は、それでも美しかった。
「君は気高いし、意志が強いし、それに、綺麗だ。声も、かわいいと思う」
「戯言ぞ……誰も、そのようなことは、言わぬ」
「他人がどう言おうが、俺には関係ないよ。というか、誰にも顔を見せてないんだろう?」
そう、俺には俺の価値観がある。他の奴らとは価値観が違うのだ。
「君は美しい。君のその髪も、君のその瞳も、君のその顔も、そして君のその声も」
宮様が視線を下げる。もう扇子で顔を隠そうとはしなかったが、そのまま顔まで伏せてしまった。
そして、消え入るように、声が聞こえる。
「そ、そなたが望むのなら、もっと、近くに寄っても、よいぞ」
かなり恥ずかしがっているのだろう。でも、宮様の雰囲気が変わったのを感じる。これなら、色々なことを聞かせてくれるかもしれない。もしかしたら、彼が女性として育てられた訳も。
彼の目の前、膝が合うくらいまで、近づいた。長い髪が宮様の周り、床に広がっている。これほど伸びるまでには、どれくらいかかったのだろうか。
「そ、そなたが望むのなら、わ、我に触れても、よい、ぞ」
消え入りそうな、まさに蚊の鳴くような声で、宮様がつぶやく――
ふぇ?
なんか……なにかが、おかしい。おかしな方向へ行っている。
『宮様語』を翻訳すれば、きっと「私に触って」という意味になるのだろうが……
さ、触って? なぜに?
意味が分からず固まる俺。でも、宮様も固まっている。
彼の瞳から流れていた涙はもうすでに止まっていた。しかし頬はまだ濡れていて、零れ入る月の光を受け、煌めいている。
そ、そうか!
そこで舞い降りる理解の天使。なるほど、宮様は俺に「涙を拭いてくれ」と言っているのだ。しかし生憎、ハンカチは持っていない。
でも、ここで「ごめん、ハンカチないや、てへ」という勇気は俺には無いな……
俺は、うつむいたままでいる彼の頬に指を当て、涙をそっと拭ぐってあげた。そして手を引っ込める。
またしばらく訪れる沈黙。宮様が視線をちらちらと俺の方へ向けた。何か言いたげな様子だが、よく分からない。
そのままの体勢で待っていたら、宮様がまた口を開いた。
「も、もっと、我に触れても、よい、ぞ」
そう言って、宮様が顔を上げる。
――もっと私に触れて
しかし涙はもうそれほどついてはいない。これ以上何をさせたいのか。
そう不思議に思った瞬間、宮様がすっと目を閉じ、そして自らの唇を、俺の方へと差し出した……
え? え? えーっ!?
それ? それなの? それっすか!?
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