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誰そ彼と聞きし君⑦
え?
あまりにも力の入っていない行為だったので、桐が何をしているのか、その瞬間はわからなかった。
圧迫感は感じるが、息苦しいものではない。払いのければ簡単に振りほどけるような力しか入っていなかった。彼の両手は、しかし、俺の首を確実に絞めている。それは間違いない。
この子はいったい何をしてるんだろう。俺を殺そうとしていると考えるにはその理由がないし、目の前の少年は『少年』でしかない。人を殺すような殺人鬼には見えないのだ。
襲われて抵抗するために相手の首を絞める、というものでもない。それならさっきのうちに逃げ出していることだろう。俺、襲ってないし。
薄明りの中、微かに見える彼の表情には、そもそも、何かしらの感情すら感じられなかった。彼の手にそれ以上の力が入ることはなく、動くこともなく、ただ人形のように俺の首に手を当てている。
俺と桐はしばらく向き合っていた。彼の瞳はどことなく焦点が合っていない。俺ではない何かを見ているようにも感じられた。
「桐?」
何気ない俺の呼びかけに、桐は今までとは違う反応を見せた。体が少しピクっと動き、目の焦点が俺の目に合う。
すると、俺の首にかける手に、力が入った。少し息が詰まる。俺はどうしていいか咄嗟に思いつかず、ただされるがままになってしまった。
桐は俺を見つめていた。外から漏れる僅かな光を反射し、その黒い瞳はしっかりと俺の眼に焦点を合わせたままでいる。
その中に初めて、人間らしい感情を見て取った。それは、何かを欲している目だった。
この目を、俺は見たことがあった。
誰?
……ルースだ。ルースが時々見せる、あの縋るような目。
あれは、まるで何かの合格発表を待つような、不安をいっぱいに孕んだ目だと思っていた。だが、ちょっと違う、今気が付いた。
それは、押さえることのできない渇望を満たしてくれという、哀願の目だ。まるで、禁断症状を訴える中毒者のような……
「お兄さま!」
その時、慌てたような声がして、藤が厨へと入ってきた。桐と俺の間に割って入り、俺の首にかかっていた桐の手を振りほどく。
「何をしてるんですか!」
桐は、問い詰めようとする藤から逃げるように体を翻すと、俺の横をすり抜ける。俺はその桐の腕をつかんだ。
振り返って俺を見る桐の表情は再び、感情というものが全く見いだせないものに戻っていた。
俺は桐に微笑みを見せて、ゆっくりと言う。
「待て待て、ちょっと待って。用があるんだ。お願いだから、逃げないで」
その言葉に、桐が抵抗をやめる。
「申し訳ありません、近衛様。桐はどうかしてたのです。許してあげて……」
「ああ、気にしなくていい。別に何もなかった。いいかい? 何もなかった。それより、藤、壺をくれ」
腕を離すとどこかへいってしまいそうに思えて、俺は桐の腕を離さずにいた。そして、藤が壺を出してくれるのを確認すると、ゆっくりと腕の力を抜いていく。
腕を離しても、桐は逃げたりはしなかった。表情は、わからない。
「おっけー。ちょっと待ってて。藤、桐に待ってくれるよう伝えて。怒るなよ」
俺は床に置いていた袋を取り上げ、中から砂糖を出した。二袋分くらいは十分入りそうだ。袋を破り、こぼれないように気を付けて砂糖を壺に入れる。
入れ終わると、指で砂糖をつまみ上げた。
「手を出して」
俺は砂糖を持っていないほうの手を、桐に差し出す。
「近衛様?」
藤が、まだ慌てた様子を残した口調で、何をするのかと確認してきた。
俺は急がず、桐が自分で手を出すまで、手を差し出したままの状態でいた。
何回か差し出した手をゆすると、桐はそのうつろな目で俺を見つめたまま、ゆっくりと自分の手を俺の手に置いた。
その掌を上に向けてあげて、その上に砂糖を載せる。
「食べてみて」
俺は自分の手を口元に運ぶしぐさを見せた。
桐の視線が彼の掌に落ち、しばらく掌に載せられたものを見ていたが、そのまま手を自分の口元に運ぶと、掌のものをかわいらしい舌で舐める。しかし桐は、綺美や藤のような驚いた声は出さない。
ありゃ? 感動しなかったか。
少し残念な気持ちで、あまり反応がない桐を見る。
載せる量が少なかったかと思った時、桐の両手が俺の右手に伸び、軽くつかむと、桐の口元へと引き寄せた。
そのまま、砂糖の付いた俺の人差し指を口に含む。粘膜が吸い付くような感触が人差し指の上を流れ、名残惜しそうに離れた。
「おいしい」
つぶやくような桐の言葉は相変わらず抑揚のないものだったが、それまでとは違い、何か妙に艶めかしい。
「そ、それは良かった。なあ、藤」
「え、ええ」
どことなく藤の反応は、さっきまでとは違っている。
もしかしたら、俺は立ち入ってはいけない領域に足を踏み入れてしまっているのかもしれない。何か罪悪感のようなものを感じずにはいられなかった。
桐はそれ以上の反応を見せることもなく、厨を出て行った。双子の兄弟だと言っていたが、あまり藤と一緒にはいたいくないのかもしれない。そんな様子だった。
俺は藤と一緒に母屋へと戻ろうとしたが、藤が引き留める。
「あの、近衛様」
「ん? どした」
「桐のことなんですが」
普段の明るく陽気でドSな物言いは鳴りを潜め、右手で自分の左腕をつかんだ状態で俺から視線を外して、藤は言いにくそうに言葉を押し出した。
「実は、桐は、この屋敷以外の人の、その、首を、絞めようとするんです」
「なにそれ」
意味が解らなかった。藤は視線を俺に向けることなく、そのまま言葉を続ける。
「一緒にいるときは気を付けているんですが、さっきみたいに二人きりになると何をするかわかりません。どうぞ、お気を付けください」
「でも、力も強くないし、殺そうっていうようなものじゃなかったけど」
「何をしたいのか、藤にもわからなくて」
困った表情の藤からは、それ以上の言葉は出てこなかった。
桐の目、ルース以外にも見たことがある。それをふと思い出した。
『アルコール』が切れた時に、アルコールを求めるために父親が俺に向けた目だ。医者に止められていても、結局死ぬまで飲むのを止めなかった、父親の目。
あの少年の、桐の持つ闇は想像以上に深そうだ。
そして……桐の目がルースのそれと重なったということは、つまり、ルースが持つ心の闇も想像以上に深いということ……なのだろうか。
ルースは今、何してるんだろう。
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