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セイレーンの歌声①

「一体、何をしておりしや」  部屋に戻った俺と藤を、綺美が声に不機嫌さをてんこ盛りにしながら待っていた。もう辺りも暗くなったのに、扇子で顔の下半分を隠しているのは相変わらずだ。 「残った砂糖も壺に入れようと思って厨に行ったんだけど、桐がいてね。桐にも砂糖を食べさせてあげたんだよ」 「ふぅん」  なぜかジト目で俺を見る綺美。 「な、なに?」 「別に。桐にも目を付けたるやと思うただけぞ」 「なんでそうなるんだよ! だから俺は男の子に興味なんか」  そこまで言って言葉を飲み込む。  綺美の青い瞳に殺意にも似た光が宿った――あぶねー、あぶねー。また地雷を踏むところだった。  というか綺美は、俺に男色があるとでも思っているのだろうか。  ……まあ、実際のところ綺美を抱いてしまったのだから、そう思われても仕方ないと言えば仕方ないか。 「別に、何もなかったよな? 藤」 「ふ、藤は仕事が残っておりますので! では!」 「ちょっ」  証人として藤に話を振ったのに、藤は、俺と綺美を残してそそくさと部屋を出ていってしまった。  逃げたな。  そして訪れる沈黙。  体を合わせたところで、綺美の不愛想さがなくなるということはなさそうだ。それが彼らしくていいと思うのだが。  御簾は開いた状態になっていた。月はまだ出ていない。星明りではさすがに何も見えないが、その分、部屋にともる蝋燭の灯りが幻想的な雰囲気を醸し出している。  ここに来だして三日目の晩。俺のいる世界とここでは時差がある。時間を決めて来るのなら、時差を計算しておく必要があるようだ。しかしここには時計がない。何か手を考えないと。  そういえば屋敷の外はまだほとんど見ていない。明日、大納言のところへ行けば、色々見れるかもしれないな。  そんなことを考えながら星を見ていると、琴の音がし始めた。綺美が琴を弾き始めたのだ。いつの間にと思ったが、琴が置いてあるのが暗くて気付かなかったのだろう。  綺美の弾く琴は上手いのか普通なのか俺にはわからなかったが、琴の音は秋の夜に静かに響き、なるほどこれが『もののあはれ』なのかと、暫くの間耳を傾けた。 「琴の音色は、いいものだね」  曲が一息ついたところで、綺美に話しかける。綺美の方を見ると、綺美も俺を見ていたが、俺と目が合うとぷいと顔をそむけてしまった。琴を弾くのだから、もう扇子は持っておらず、かといって今は顔を隠そうとはしていない。  長い髪がとても似合っている。とても綺麗だ。これで男というのだから……  そういえば、綺美の顔を初めて見たのも、琴を取り出す時のことだった。というか、実際のところ月の光や蝋燭の灯りの下でしか綺美の顔をしっかりとは見ていないので、昼間見るとまた違う印象を受けるのかもしれないな。  さて、それがいつのことになるやら。 「琴は好きなるや?」  あさっての方向を向いたまま、綺美が不愛想に訊いてきた。 「和楽器の中では、琴が一番好きだな」  実際、時々ネット動画で聴いたりする。しみじみとした、もの悲し気な弦の響きが好きだ。 「ふん」  綺美は、返事かどうかもよくわからない応答をすると、また琴弾き始めた。  こうして二人きりでいると、昨日のことを思い出し、気恥ずかしくなる。  もしかして藤は気を利かして二人きりにしたのか……いや、違うな、あれは。  多分、桐の話を触れられたくなかったのだろう。  桐……今思い出しても不思議な子だ。一言二言しか声を聞いてはいないが、あれは生まれつき耳が聞こえない人の発音ではない。かつては耳が聞こえていた人のものだ。  唇に触れた桐の肌の感触を思い出す。あのパリパリとした感じは、なんだったのだろうか。  そして、目。  暗闇の中で俺を見つめる桐の目を思い出す。その目がルースの目と重なった。 「コノエ、そなたの考えておることは何ぞ」  綺美が琴を弾く手を止め、俺を見つめている。 「ああ、ごめん。琴の音色を聞いてると、なんだか色んなことを考えてしまってね」 「他の『女子』のことでも、考えておるや」  世間知らずの『深窓の令嬢』に見えて、案外綺美は鋭い。人のうわべではなく、心の中を見て生きてきたからだろうか。  無理に否定はしないで、ちゃんと話したほうがよさそうだ。 「別に色恋事を考えてるわけじゃないよ。みんな、いろんなことを抱えて生きているのかなって考えてた」 「桐の事や?」 「そうだね。藤もね」  でも、さすがにルースのことは出せないな。 「かの双子のことは我も良くは知らぬ。二人がこの屋敷に来し時にはもうあの様であったゆえ。されど、我は気にしたことも無ければ」 「そっか」 『気にしたことないけど』という綺美の言葉は本心だろう。綺美は誰に対しても態度を変えることはないに違いない。貴族連中にも、藤にも桐にも、そして俺にも。  あの双子には深く立ち入らない方がいいのかもしれない。 「彼の二人のことのみなるや? 『他の者』のことも考えておるように見えるぞ」  ちょ……  綺美の瞳が、また青く光ったような気がした。 「そ、そんなこと、ないよ」  いや、鋭すぎるだろ……

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