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セイレーンの歌声②

「怒りはせぬ。殿方とはそのようなもの。別に我とて、そなたを縛り付けたいわけではない」  しかし、その後に綺美の口から出てきた言葉は、俺にとって、意外でしかないものだった。 ――私だけを愛して。  そう言うのが当然だと思っていたから。でも、人間なんて、いつかは変わる。そしてその時、その言葉が嘘になる。俺はそれをついこないだ、思い知った。  綺美は、人間の|性《さが》というものを知っているから、そんなことを言うのだろうか。それとも、この時代、いや、この世界の常識がそういうものなのだろうか。 「ただ」  俺が何かを答える前に、綺美はそのまま言葉を続けた。その視線が、琴へと落ちる。 「ここでは、我だけを」  そして消え入りそうな声で、そうつぶやいた。  『もちろんだよ』と言いかけて、言葉を飲み込む。  ほんの数日前まで付き合っていた『彼女』。その間に、一体どれだけたくさんの甘い言葉を俺にくれただろうか。 『こぉくんだけだよ』『カナのことだけ愛してね』  電話で、メールで、ソファで、ベッドで、今まで聞いたことのなかった言葉をもらって、俺は舞い上がっていた。だから、俺は彼女のことだけを愛した。  でもそれらの言葉は、たった一言、『あなたのこと、人としては好きだけど、あなたとは価値観が違ったのよ』というものによって、全て無かったものにされてしまったのだ。  裏切られたとは思わない。女性とは……いや、人間とはそういうものなのだろう。  ただ、俺にそこまでの価値が無かったのか、という虚無感だけが残っている。  そこでふと気づく。なぜ俺が綺美を、いや、『男性』を抱く気になったのか。  どれだけ綺美が美しくても、やはり男性だった。握りしめた綺美のモノ。男性である証。でも俺は、それを意識していても綺美を抱いてしまったのだ。途中で止めることもできただろうに。  そして下半身に今も残る生々しい感触。入れたことのない場所に、入れてしまった感触。本来何かを入れる様には創られていない場所に、何かを入れてしまった感触。  でもそれは、『彼女』とは経験しなかったこと。  そして、『女』を思い出すことのなかった行為。  だから俺は……いやだからこそ……  別に、俺は綺美を、俺を振った『女性』の『代替』なんかにしたわけじゃない。彼を抱いていた時、『彼女』のことを思い出すことはなかったのだから。  それどころか…… 「もう少し、綺美の琴を聞かせてくれないかな。もっと綺美を見ていたい」  綺美の言葉に答えず、今思っていることをそのまま綺美に伝えた。 「ふん。そのような世辞を言うても、許しはせぬぞ」  いつもの不愛想に戻った綺美を、しかし、とても愛おしく思う。  なぜ? 理由なんか、ない。  女性が嫌になったから、なんかじゃ、ない。 「お世辞じゃないよ。綺美が好きなんだ」  彼の気高さと美しさに、きっと俺は恋をしているんだろう。それは確かなことなのだ。女性だとか男性だとか、そういうものではないと思う。なら、二人の間にどんな終焉が来ようとも、それまで綺美を好きであり続ければいい。  俺の価値は、綺美が決めることだ。綺美が俺に価値を見出してくれるのなら、俺はそれに応えよう。  そうでなくなったら、己の無価値さを嘆けばいい……でもその後で、俺は何を思うのだろう。  俺の言葉に、綺美は少し驚いた表情をした後、ぷいと横を向いた。 「な、ならば、もう少し近う寄っても、よいぞ」  調子は随分と横柄ではあるが、その言葉は綺美が見せる『甘え』であり、多分俺にしか見せないものなのだろう。 「それだと、琴が弾けないよ」 「ふ、触れなければ、どうということは」  立ち上がって外を見ると、ようやく月が顔を出し始めていた。  立待の月、か。  綺美の傍に寄り、再び琴を弾き始めた彼を後ろから抱きしめる。それは、俺自身の気持ちを確かめるためでもあった。  彼の長い髪の毛からは、柑橘系のようなものの香りが立ち込めている。その髪に、俺は頬を寄せた。  やはり、何かの気の迷いなんかじゃない。確かに俺は、綺美を愛しいと思っている。たとえ彼が、男であっても。 「触れなければと、言うて、おるに」  そう言いながらも、綺美は琴を弾く手を止めると俺に体を預け、俺の腕に自分の手を重ねた。俺は、彼を抱きしめる腕に少し力を込める。  軽い吐息が綺美の口から漏れた。 「許してくれるよね」 「悪いと思うてはおらぬくせに」 「そういうわけでも、ないんだけどな」  口づけをしようと綺美に寄せた唇を、綺美の人差し指が遮った。 「コノエ」  至近距離では、彼の碧眼が蝋燭の光の下でもはっきりとわかる。美しく吸い込まれるような瞳。俺をとらえて離そうとしない。 「な、なに?」 「良いのか」 「何が?」 「我は、|男《をのこ》ぞ」  綺美はそう言うと、俺の手を取り、十二単の隙間から綺美の下半身へと導いた。

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