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セイレーンの歌声③
燈明の頼りなげな光の中、綺美と俺、二人の息遣いが静かにシンクロしている。
その頼りなげさとは対照的に、俺の右手の中には、その実存を強く主張しているもの――綺美が男性である証があった。
それを軽く握りしめる。綺美の口から、艶っぽい声が小さく漏れた。俺の中に、それへの拒絶感はない。それどころか、綺美への愛しさで胸がいっぱいになった。そのことに、俺自身、少し安堵する。
やはり、昨日のことは気の迷いなんかではなかったのだ。
「その答えはもう言ったはずだよ」
俺がそう言うと、綺美は少しむくれたような表情を見せた。
「聞いてはおらぬ」
「そ、そうだっけ」
昨日、あれだけのことを『いたした』のだから、聞かなくても分かるだろう……というのは通じないようだ。
言葉……人間はなぜ、そんな頼りないものにすがろうとするのか。
「綺美が男だろうがなんだろうが、俺は構わない。綺美が好きだ」
俺の答えに、しかし綺美はまた不安げな目を俺に向けた。
「我だけを、愛せ」
「ああ、もちろん。愛してる、綺美のこと」
だけを――
しかし、その最後の言葉が出てこなかった。
君だけを。あなただけを。
でも、綺美がそう思うほどの価値が俺に無かったら、また全てなかったことにされてしまうんじゃないのか?
そして俺も――いつか他の誰かを、いや、もしかしたら、他の誰か『も』好きになるかもしれない。
その時、その言葉は嘘になる。いつか必ず、嘘になる。
この瞬間の安寧のためだけに、そんな言葉を口にしていいのだろうか。
君を見つめる。俺を見つめる。その青い瞳がわずかに揺れ、細い指が俺の頬に触れた。
「我の傍にいる時だけでよいから」
その綺美の言葉にハッとなる。全てを見透かされているような気がした。
いや……これが、この言葉が、この世界の『感覚』なのかもしれない。例えば一夫多妻が当たり前の世界だとしたら――自分の『居場所』を確保しようとするしたたかさなのか、それとも、自分の存在を相手に刻もうとする悲壮な叫び声なのか。
実際のところ、綺美がそこまで心配する必要はないだろう。それとも、綺美には俺がそんなにモテるように見えるのだろうか。
ついこないだまで、確かに俺には恋人がいた。でもあれは、彼女の『気の迷い』だったのだ。俺がそうそう誰かに好かれるなんて……
そこでふと、ルースの顔が浮かんだ。ルースが、あの縋るような目で俺を見ている。
そして襲ってくる奇妙な罪悪感。
なんだよ、これは。別にルースは……
ルースとのキス。あれは好きなもの同士がするものではなかった。戯れなものですらない。
彼が何をしたいのかはいまいちよくわからないにしても、ルースが何かしらの『渇望』の感情を持っているのはわかる。でもそれは少なくとも、恋とか愛とか、そういうものではない。
俺にしても、キスやら接触があったからといって、『キスされたから好きになりました』などと思うほどの感覚はない。ルースは男だし。いや、綺美も男なんだけどさ。『男が好き』というわけではないのだから。
俺がルースに対して恋愛感情を持っているとは、自分自身でも思えなかった。
なのに、なぜルースの顔が思い浮かぶのか。
なのになぜ、胸のどこかで罪悪感がチクチクと蠢いているのか。
なぜ? わからない。
あのルースの目。何かを俺にせがむような目。縋るような目。何かを求める悲痛な目。
もしルースが俺に何かを求めているならば、俺はそれを捨ておくことができるのだろうか。
……いや、それこそ錯覚だ。そう、すべては錯覚なのだ。
「我の傍では、我だけを」
綺美がもう一度そうつぶやいた。それは逆に言うのなら、綺美のいないところでは、他の人を好きになってもいいということだろうか。
誰を? ルースを?
ありえない。そういう想像をしてしまったことに、おかしさがこみあげてくる。
あいつは関係ない。そう、関係ない。
どこかに飛んで行ってしまっていた意識を綺美に戻す。そして目を見て、俺はまたハッとなった。
彼の碧眼の中に見えたもの。それは、さっきまで俺に見せていた不愛想さでも、人にものを頼むときの横柄さでも、時々見せる恥ずかしそうな甘えでもなく、魂の深淵から湧き上がってくるような、あの『渇望』だった。
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