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大納言を訪ねて約三里①

 もう暁、つまり夜明け前は過ぎてしまった。屋敷を出るタイミングを思いっきり逸している。  ここにいても大丈夫なのかと思ったりもしたが、綺美が慌てるそぶりを見せないので、なんとかなるのだろう。習慣の分からない場所は、慣れるまで一苦労だ。  元の世界ならまだ深夜くらいかもしれない。まあ、日曜日だから、時間を気にする必要はないか。  屋外との仕切りは御簾と帳しかなく、冷たい朝の空気が容赦なく部屋に入ってくる。帳の中には火鉢のようなものがあるし、寝床は藁製の畳なので意外に寒くはないのだが、考えてみたら裸のままで寝てしまっていた。 「起きないと、人が来ちゃうよ」 「さ、然様ぞかし」  どの道、綺美の単衣は一人では着られるものではない。誰かに手伝ってもらうのだろう。多分、藤かな?  俺はとりあえず自分の服を着ることにした。 「コノエは毛皮の下にも不思議なる服を着ておるかし」 「ん? ああ、そうだね」  下はジーンズ、上はポロシャツにセーター。綺美には見慣れない衣服だろう。 「コノエ」 「何?」 「それが、そなたの世の装束なるか。いと面白げなるぞ」  結局、さっきの綺美の問いかけ、つまり俺の正体の話に返事をしていなかった。しかし、綺美はもう『そういうもの』、つまり俺が別の世界から来た人間だと納得しているようだ。 「動きやすい服だよ」 「コノエも……そなたの世に帰るのか?」  ふと言葉を漏らす綺美の目に、またあの『渇望』が見え始める。  そうか。そういうことか。  綺美は、俺が何者であろうが気にしないだろう。なのに正体を聞こうとした。なぜかと思っていたが、それが原因か。 「帰るときもあるけど、かぐや姫と違ってちゃんとここに戻ってくるから、心配しなくていいよ」 「べ、別に心配などしてはおらぬぞ」 「はいはい」  機嫌を直した、というか不機嫌さを取り戻した綺美を見て、俺は寝所を出た。後ろで『誰かある』と人を呼ぶ綺美の声が聞こえる。  考えてみたらオープンすぎるよな、これ。  廂――ひさしという、母屋についている廊下のようなもの――に出て庭を見る。もうすっかり明るくなっていたが、昨日の夕暮れ時以上に、屋敷の惨状が目に入った。庭の草は伸び放題、出入り口である中門は傾いている。母屋から離れに続く渡り廊下は屋根が何カ所か崩れたままになっていて、雨が降れば水浸しになるだろう。蜘蛛の巣がいくつも架かったままになっている。彼らは人間よりも雨と闘わなくてはならないようだ。  さて、砂糖はどれくらいで売れるのだろうか。案外に価値がなかった場合、二の矢三の矢を考えておく必要がある。まあ、そんなものはないのだが。  そう思案を巡らせていると、向こうから人のやってくる気配がした。藤か、それとも桐だろうか、そう思って見ていたが、現れたのは、白粉で顔を真っ白にした、少しやつれた感じの女性だった。  女性もいるんだ。 「あ、ども、お邪魔しています」  少し間の抜けた挨拶だったと自分でも思う。しかし、女性は俺をその切れ長の目で睨むと、何も言わずに寝所へと入っていった。あの人が『播磨』と呼ばれる女性なのだろう。白粉のせいで、年齢も顔もよく分からなかった。  それにしても、この屋敷には、怖い人しかいないのかよ……  怖い人に会わないように、というよりも、桐に会わないように、俺は急いで屋敷を出た。  綺美との約束。そして結婚の話。  それはいい、いや、いいのかどうかよく分からないが、それはいいとしよう。問題は、俺自身だ。  自分自身、こんなに惚れっぽい性格だとは思ってもいなかった。もしかしたら、俺を『渇望』の目でみる相手を手あたり次第好きになってしまうんじゃないだろうか。性別なんて関係なく。  そんな性癖、今まで意識したことが無かった。いや、そもそもそんな目で俺を見るような人物がいなかったということもあるだろうが。  考えてみれば、ルースだけではない。桐も『渇望』の目で俺を見る一人だ。  ルースはここに姿を現してはいないから、ここではルースのことを考えずにいることは容易だろう。  しかし、桐は違う。ここにいるのだ。もし、彼の目の中にもう一度『渇望』を見てしまったら、俺は自分の欲望を抑えられるだろうか。その自信は無い。それに気が付いてしまった。  今は会わないほうがいい。ただでさえルースのことが気になるというのに、これ以上はキャパの限界だ。  なんて無節操で非道徳な男だろう。  自分自身を笑ってしまいそうだ。まさか自分がこんな誠実みのない男だとは思ってもみなかった。誠実とか誠意とか、そういう言葉は嫌いだが、それは、その言葉を使う人間に誠実な人間がいなかったという個人的経験が理由であって、自分自身が誠実さを持たなくていいということではない。  綺美があんなこと言うから……  いっそのこと、「ずっと私だけを愛せ」の一言だけ言ってくれればよかったものを。  ……彼は見抜いているんじゃないだろうか。俺の本性を。  その問題はとりあえず置いておこう。今必要なのは、経済的な問題を解消するための情報だ。  ……そういや俺、魂を集めにここに来たんじゃなかったのかと思うのだが、肝心のルースが姿を現さないので、手探りでやるしかない。というか、そもそも俺にルースの魂集めを手伝う理由があるのだろうか。  ……ここに居続けるためでしかない。もう本末転倒だな。

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