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死にゆく者の匂い①

 側室と聞いていたので、そうたいしたものではないだろうと思っていたが、到着した屋敷は俺の予想より何倍も大きいものだった。門は開いており、馬に乗ったまま屋敷の門から中に入る。  屋敷の造り自体は綺美の屋敷とそうは変わらないが、崩れたところも無ければ、蜘蛛の巣も張っていなかった。隅々まで手入れが行き届いており、藤が見たらさぞかしうらやまし気な声をあげたことだろう。 「姫君、大納言が参りました」  そう言うと大納言は、俺に馬を降りるように促した。俺はおそるおそるポニーから降りる。これがサラブレッドなら、降りるのもさらに一苦労だったろう。  大納言が慣れた様子で馬を降り、そのまま屋敷の母屋へと入っていった。  綺美の屋敷とは違い、母屋がそのまま寝所になっているようだ。離れは向かって左右両側に建っている。何人かが行き来しているが、皆どこかせわしなかった。  俺は居場所のないまましばらく屋敷をきょろきょろ見ていたが、程なくして大納言がまた顔を出し、俺を呼んだ。 「近衛殿、こっちに来てくれないか」  その表情は、さっきまで以上に浮かないものになっている。  俺は黙って頷くと、屋敷へと上がる。廂と部屋を御簾が分けているが、その御簾の一つは上に巻き上げられていた。  流石にそのままずけずけと部屋の中に入るのは気が引ける。しかし、大納言の方を見ると、今度は大納言が頷いた。 「君に姫君を見てもらいたい」 「え、いや、なぜですか?」 「君は修験者だろう。病気の治療をお願いできないだろうか」  二回目の「そう来たか」だった。この世界が、平安時代のようなところであるなら、医者はいないにちがいない。薬師以外なら、僧侶か修験者が『病魔の退散』を行うのだ。  これは困ったな。  もちろん、俺には医学の知識なんてものは、ない。 「すみません、俺、病気の治療はできないんです」 「そう言わずに、頼む」  食い下がる大納言の目からは、わずかな希望にも縋りたいという切実さがひしひしと伝わってくる。  まあ、この世界の人間よりかはわかることも多いか。  無下に断るのもどうかと思い、見るだけは見てみると大納言に念を押したうえで、御簾の中へと入った。気軽な気持ちで。  部屋の構造は、綺美の寝所とほぼ同じだ。中央には帳に囲まれる形でベッドのようなものが置いてあり、そこに横たわる女性の影が見えた。  帳を上げる。  そして俺は感じ取った。帳の中に充満する、『匂い』を。  この部屋にも、香は焚かれているはずだ。風呂はおろか、水浴びすらほとんどしない人たち。体臭を消すために香が焚かれる。実際、ここに入る前は、香の匂いがしていた。  しかし、この匂いはそれまでしていた香のものではない。朽ち果てた木々と、それらが大地へと帰る土が、雨の降る直前に放つ独特の芳香。  そして気づいた。これは、ルースと同じ匂いだ。  彼が出すお茶の匂い。髪の毛の匂い。体から仄かに揺れ立つ匂い。流れ込む唾液から鼻に抜ける匂い。  この匂い、嫌な臭いではなかった。いや、俺個人としてはいい匂いだと感じるものだ。ルースに対して『良い』感情を抱くのは、この匂いが理由でもあるだろう。  しかし、だった。  寝所に横たわる女性は、虚ろな目を開け、息苦しそうにあえいでいる。顔は紅潮していて、高熱を出していた。時折出る咳は、水の泡の破って出てくるようなゴボゴボという不吉な音を立てている。  明らかにこの女性は、死に瀕している。病名はわからない。肺炎を発症しているのだろうか。  わからない。自分の症状ならいつもよくわかるのに、他人の病名を判断するなんて不可能だ。  それにしても、目の前の女性はこんな状態なのに、なぜ立ち上る匂いは、あのルースの匂いなのか。  もう、お香の匂いは感じない。木と土の匂いが、充満しているはずのお香の匂いを俺の嗅覚から消し去っていた。 「どうかな。何かわかるか?」  大納言が俺に声をかけてくる。焦る気持ちを抑えているのがこちらにも伝わってくるが、俺にはどうしようもないのだ。 「病気はいつ頃からですか?」 「昨日、急に倒れたと聞いた。今日は昨日より悪化しているようだ」  急性……高熱となると、ウィルス性の感染症かもしれない。インフルエンザか、コロナか……この世界にもウィルスがいるのか?  毎年死者を出す人間の天敵。しかし、こんなに重篤になった人は、話に聞くぐらいで、直接見たのは初めてだった。 「触れてもいいですか?」  大納言がだまって頷く。女性の額に手を当て、体温を比べるために自分の額にも手を当てるが、その必要のないくらいの高熱を手に感じた。  そして、それ以上に強く、ルースの匂いを感じる。 「ちなみに、今、どんな『におい』がします?」  見当違いのような俺の質問に、彼は一瞬不思議そうな顔をしたが、俺の真剣な顔を見たからだろうか、真顔に戻って答えてくれた。 「これは菊花香のにおいだと思う」 「それは、木や土のにおいがしますか?」 「いや、菊の花の香りを模したものだが」 「他に何かにおいは」 「いや、それだけだ」  俺にしか感じない、木と土の匂い。  これが、『死にゆく者』が放つ匂いか……直感的に、俺はそう確信した。

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