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死にゆく者の匂い③
姫君の変化に、感嘆の声が周囲であがる。
「近衛殿、姫君が飲んでくれたぞ」
帳から出てきた大納言は、やや興奮気味にそう言った。しかし、俺の顔を見るとその興奮が冷めてしまったようだ。彼の表情が憂慮のものに変わる。
自分では意識していなかったが、それだけ俺が厳しい顔をしていたのだろう。
もちろん、水分を取ったからと言って劇的に変化するとは思っていない。ただそれ以上に、彼女から発せられる『匂い』がどんどんときつくなっていて、それを感じれば感じるほど、この後に起こるであろう悲劇を思わずにはいられなかった。
どうみても彼女は寒いはずだ。しかし、それを訴える様子はない。もう寒さすら感じないほど、意識が朦朧としているのかもしれない。
「できれば、飲める分だけ飲ませてあげてください」
俺は大納言にそれだけを伝えた。もうここに、俺ができることはないだろう。
「俺はここでお暇します」
「ちょっとまってくれ。さっき作ってくれたものの作り方を、教えてはもらえないか? 姫君にもっと飲ませてやりたい」
「ああ、いいですよ。その方がいいと思います」
温かくする方がもっといいのだが、それは許されそうにない。俺はそれ以上何も言わずに、大納言ともう一人側仕えの女性とともに、厨へと向かった。
さっき作った時の分量を思い出しながら、作り方を二人に教える。
真剣に俺の話を聞く大納言を見ているうち、俺はふと、彼について尋ねたくなった。
「何人と結婚されてるんですか?」
「ん? 妻は三人だ」
「その全員を、あなたは愛しているのですか?」
よくよく考えてみると、失礼な質問だ。しかし、大納言は嫌な顔もせず答えてくれた。
「もちろんだ」
「愛情は三分の一ずつになりますよね?」
「いや、全員を私の全てで愛している」
「でも、実際あなたは一人です。一人の女性だけを愛するべきではないですか? 一人の女性だけを妻とするべきではないですか?」
この世界、もし人の寿命が短いのだとすれば、俺の意見などきれいごとに過ぎないだろう。一人でも多くの子孫を残すことがその人の使命であるがゆえに、一夫多妻が許されているのだ。それは特に哺乳類にとって、生物学的に極めて合理的な種の保存方法である。
この、目の前の男は、俺の問いかけに対してそのような内容の答えを返すだろうか。そうするしか仕方ないと言い訳めいたことを口にするのだろうか。それとも、現代の価値観を理解できずに、ただ笑い飛ばすだろうか。
それらを試した部分もあった。この世界の価値観を試したともいえる。しかし返ってきたのは、予想とは違った返事だった。
「確かに、彼女らの中には自分だけを愛してほしいと思う者もいるだろう。特に私の正室は、嫉妬深いしね。
では、一人だけを選んだとしよう。君は他の二人を捨てろというのか? 愛し合っているのに、自らの手でその人を幸せにする努力を放棄して、幸せにできるかどうかわからない他人に、愛する人を委ねろというのか? 私には、そんなことはできない。
愛し合う者のために私の全てを奉ささげよう。私にはその覚悟がある。
反対に覚悟が無いのなら、選んだ一人すら幸せにすることなどできはしまい。覚悟無き者に、人を幸せにすることなどできるはずがない。
確かに彼女たちに会える時間は三分の一になるかもしれない。ならば会っている時間は、他人の三倍以上の愛をその女性に注ごう。私が愛する彼女たちが私の愛を求めるのなら、私はその全てに全力で応えよう。他の妻に嫉妬して寂しい思いをせずに済むように、全力で彼女たちを愛そう。
それが私の生きる道だ」
彼は俺の眼をまっすぐに見つめ、何一つ迷うことなくそう答えると、その後に、「まあ、これは私の考えであって、中将とかはそうではないらしいがね」と笑いながら付け足した。
なるほど、これは大納言が持つ信念であり、彼だけが持つ価値観なのだろう。
しかし、彼にとってその信念こそが『真理』であり、彼はその『真理』のために生きている。それを聞いていた俺には、その強さがただただ羨ましく思えた。
俺にはまだそんなものはない。
そのために生き、そのために死ねると思えるような『真理』を、俺は彼のように見つけることができるのだろうか。
「ああ、すまない。なんだか私だけがしゃべってしまったね」
「いえ、すごいと思います。羨ましいです」
正直な感想を述べる俺に、大納言はただ、そうかと頷いて微笑みを見せた。
高い身分にいる大納言が厨に立つことなどなかっただろう。しかし彼は、病床の女性のためにと、そんなことに構ってはいなかった。
折角だからと、大納言に『なんちゃってスポドリ』を作ってもらい、味見をしてみる。結構再現できているなと、心の中で自己満足。
できたものを持っていこうという段になって、母屋の方から慌てた様子で一人の女性が厨にやってきた。
「大納言様、相闍梨様がお見えです」
あの命婦だった。彼女は俺の方をちらっと見る。その視線に、ふと俺は何か違和感めいたものを感じだ。
「わかった。参ろう」
俺はそのまま大納言を見送ろうとしたが、彼は母屋へは向かわず俺の方を振り返る。
「君も来てくれ」
正直、嫌な予感しかしなかった。しかしかといって取り立てて反対する理由もない。俺は大納言の後についていった。
母屋へと戻ったが、そこにはさっきまでいなかった、白と青の衣装を着た男が立っている。白い着物は肩のところで分離していて、胸のところが前掛けのようになっているもの――確か、狩衣だったか。そして頭には烏帽子。『陰陽師』の衣装として見たことがある。
男は大納言に何か声をかけようとしたが、後ろから現れた俺に気づくと口をつぐんだ。そして俺をじっと見つめてくる。自然と、俺もこの男の目を見ることになった。
と、そこでさっき感じた『違和感』の正体に気が付いた。
あの命婦の目にもこの男の目にも、『疑問』が無かった。俺を見るこの世界の人間の目にはまず、『疑問』が浮かぶ。
こいつ、誰?
目は、そう語る。皆、初めて会った時には、不思議そうな目で俺を見ていた。
でも、こいつらは違う。その『疑問』が無い。代わりにあるのが『疑念』だった。
なぜここにいる?
そんな目だった。嫌な予感が膨らんでいく。
こいつら……俺の『正体』を知っているのか?
なぜ?
まさかこいつら、この世界の人間では……
突然、狩衣の男が俺を指差して、こう叫んだ。
「その男が、姫君に取り憑いている悪霊だ!」
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