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死にゆく者の匂い④

 ちょっとまて。  狩衣姿の男――髪はたぶん長いのだろう。しかしそれらは束ねられて烏帽子の中に納まっているようだ。切れ長の目にはおよそ慈悲という言葉で言い表せるようなものは宿っていない。  シャープなあごは、日に焼けた肌と衣装の上からでもそれとわかる筋肉質の体と合わさり、ワイルドな印象を与えている。身なり以外は、陰陽師などという言葉の印象からかなりかけ離れた男だった。  その男から俺に向けて発せられた敵対的な言葉が、周りの者の視線を俺に集中させた。その視線を見回してみる。それらは様々な色をしているが、共通している感情があった。  怯え、驚愕、憎悪。 『病魔』という考え方自体は現代でも当てはまるものだ。ウイルスなぞ、人間にとっては正に『魔』でしかない。  しかし、この世界の人間にとって、そのような目に見えないウイルスよりも、鬼や化け物の姿をした『魔』の方が実在を信じるべき対象となるのだろう。  例えば、怪しい身なりをした俺のような……  ただそんな中、一人だけ、俺を見ていない男がいた。彼の目は、怯えも驚愕もなく、声の主である陰陽師風の男を真っ直ぐに見ている。 「相闍梨(そうじゃり)殿、それは違う」  身構えた状態で「違う」と言おうとした俺よりも先に、その男、大納言が口を開いた。 「この者は、私が連れてきた修験者で、上総宮の姫君の屋敷にいる者だ。悪霊などというものではない」 「大納言様、騙されてはなりませぬぞ。その者を捕えて鞭打てば、本当のことをしゃべるでしょう。(やつがれ)にお任せを」  低音の重々しい声で、しかし内容は堂々の拷問宣言。冤罪はこうやって生み出される、などと悠長に考えている状況では明らかにない。 「お前こそ怪しいだろ。熱出してる人間を、衣も着せず放置かよ。何考えてるんだ?」 「問答無用!」  そう言うと、大納言が発した「待て」という言葉も聞かずに、相闍梨と呼ばれた男は軽やかな身のこなしで俺にとびかかってくる。咄嗟に後ろに下がって避けたが、男が振り下ろした拳は、派手な破壊音とともに、俺が元居た場所の木板に穴を開けていた。  ちょ、シャレにならないぞ。こんな話聞いてない。 「逃げるな、悪霊。やつがれが退治してくれよう」 「悪霊じゃない!」  奴の目は、獲物を狙う目だ。迷いはない。  なんか、やばい。こいつ、何者だよ。  相闍梨が一歩踏み出す。そのまま右足の蹴りが飛んできた。左腕でブロックしたが、そのまま後ろに飛ばされる。廂から落ちたのを、体をひねって左足で着地したが、勢い余って二、三回地面を転がった。受け身は取ったが、起き上がるまでにはいかない。  いてえ……  左足に痛みを覚える。左腕は感覚すらない。  相闍梨が、廂の上から俺を見下ろし、にやりと笑う。奴は腰に引いた右手に左手を添えて構えていた。  逃げようと思ったが、痛みで体が動かない。 「悪霊よ、捕らえるまでもない。ここで滅せよ!」  そう言い放つと、相闍梨は俺に向かって両の手を突き出した。 「はっ!」  テレビやゲームで見たような、としか思わなかった。彼の手がオーラのような光を放つ。  俺は本能的に目を瞑り、右手を顔の前に出して防ごうとした。  くそお!  悔しい。奴が誰だかわからないが、何もできずにいるのが悔しい。  やられるのかよ……ごめん、綺美……ルース……  耳のつんざくような派手な轟音が響く。風が体の両脇をすり抜けていった。  しかし、体に痛みは感じない。恐る恐る眼を開ける。  最初に目に入ったのは、この世界には場違いな、漆黒のゴシックシャツとドレス風の袴だった。  その裾から出ている細い太もも。長い袖から出ている華奢な手。うなじと、ふわっと風に揺れたショートボブ。それら全てが、衣装とは対照的に、透き通るように白く輝いている。 「ルース! どこにいたんだよ!」 「ごめん、コノエ。こんなことになってるとは、ボクも知らなかった」  振り返りもせずに、ルースは申し訳なさそうな声で、言い訳を口にした。  こんなこと、ってどんなことだよ。説明してくれ。 「ほう、随分久しく見なかったが、今更出てくるとはどういう風の吹き回しだ」  相闍梨は、ルースの出現にも全く動じる様子がない。  こいつ……ルースのことを知っている? 「軽口をたたくのもその辺にしておくべき、かな。ボクのリュビームイに手を出したこと、後悔させてあげるよ」 「はっ、笑わせる。そやつがお前の『依代』か?」 「違うね」 「ほぉ。依代でもない者を連れまわしているとは、お主も懲りぬやつよのぉ」 「放っておいてくれるかな。それよりボクは今、本気で怒ってるんだ。だから、君にはここで『さよなら』してもらう、ね」  最後の「ね」にだけ、これまでルースからは聞いたことのなかった感情、大いなる『殺意』が込められている。  ルースの表情はここからは見えない。しかしその口元にはゆがんだ笑みが浮かんでいるように思えて、ふと背筋に冷たいものを感じた。 「ふっ、威勢だけはいいようだが、やつがれが前と同じだとは思うなよ」  男がルースに笑い返す。 「コノエ、あの女に気を付けて」  あの女? って、どの女だよ!  俺がそう言い出す前に、ルースは男へと飛び掛かった。ルースと男がぶつかった瞬間、辺りに閃光が走る。咄嗟に瞑った眼を再び開けると、もうルースと男の姿はそこになく、相闍梨と呼ばれていた男によって廂に開けられた穴だけが、残っていた。

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