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死にゆく者の匂い⑤

 穴の傍には大納言が、そして方々には部屋にいた女性たちも倒れている。  幸い、左腕の感覚は戻ってきていた。衝撃でしびれていただけのようだ。左足も動かすには問題ない。  丈夫に生んでくれた両親に感謝だな。  俺は、体を確かめながら起き上がると、廂に続く階段を上り、大納言を抱え起こした。 「大丈夫ですか」  応答はなかったが脈はある。気を失っているだけだろうか。とりあえず大納言を床に横たえ、周囲を見回した。  自分でも、よくぞそうしたと思う。見まわした視線の先に、あの女、命婦と呼ばれた女がいた。手に、刃物を握った状態で。 「俺に何か恨みでもあるのか?」 「恨みはありませぬ。ただ、死んでもらわねばなりません」  問答無用と言わんばかりに、命婦は刃物を振り回してくる。得物でもあれば対応できそうだが、無手で飛び込むには危険だった。かといって、後ろには穴がある。俺は転がるように御簾の下をかいくぐって、部屋の中へと飛び込んだ。  紙燭台が目の前にあった。一メートルくらいはあるだろうか。それを手に取り、部屋に入ってきた命婦に対峙する。  若くもない、それに十二単を身に着けているだけに動きは緩慢だった。それでも彼女は刃物を構えてこちらに詰め寄ってくる。 「なぜ俺が死ななきゃならないんだ?」  穏便に済ます方法を考えるが、そうはいかないようだ。 「そうせねば、私が消えてしまいます」 「意味がわからない。それにもう無理だ。諦めろ」  女が俺を上目遣いで睨む。しかしすぐに、なぜか笑い始めた。 「お前は何も知らないのですね」  そして、刃物を手にしたまま、口元を押さえる。しかしそこから抑えようのない笑い声が響き渡った。 「何をだ。何がおかしい」 「あの者たちの正体も知らずに、付き従っているお前が、おかしゅうて、おかしゅうて。何も知らずに、死神に、付き従うておる。これは、哀れ、哀れ」  おほほほほ……  どうにも気に障る笑い方をする女だ。  「まあ確かに死神かもしれない。記憶を残すために魂を集めようなんて、あまり気持ちのいいもんじゃないけど」 「記憶? そのような戯言を、お前は、真に受けて、おほほほほ。知らぬというのは、ほほほほ、ほんに、哀れ」  老婆、とまではいかない。白粉を塗っているので分からないが歳は五十前後だろうか。若いころは美しかったかもしれない。その、目の前の女が、俺を見て笑っていた。 「あいつらが何者か、お前は知っているのかよ」 「もちろん。あれは……」  そう言いかけたところで、まるで電池が切れたロボットのように女の動きが止まる。そのままゆっくりと、彼女は前へと崩れ落ちた。  な、なんだ?  何が起こったのかよくわからなかった。女の元に近寄って首に手を当ててみたが、脈がない。  俺は驚いて後ずさり、その拍子に尻餅をついてしまった。 「何が起こったのだ?」  声がした方を向く。そこに大納言が立っていた。 「分からない」  そうとしか答えようがなかった。大納言が命婦に近寄り、俺がしたように生きているか確かめる。 「死んでいる」  ただし彼は、俺のように慌てたりはしなかった。俺なんかよりずっと『死』に慣れているようだ。  周りでは、倒れていた女性たちがようやく気が付いたようで、身を動かし始めている。  と、その時、帳の中から苦しそうなうめき声が聞こえた。 「そうだ」  俺は思い出したように立ち上がり、『姫君』が寝ている帳の中へと入る。彼女はひどくうなされていた。 「大納言! 衣を! あと暖を!」  正直、命婦に構っている暇はなかった。一先ず自分の着ていた毛皮のコートを脱いで、姫君に掛ける。帳の近くで起き上がった側仕えの女性が俺の目に留まった。 「体を拭いてあげて!」  有無を言わせぬ俺の口調に、女性は黙って頷く。 「誰か、衣をありったけ持ってきて!」  何人かの女性が別の部屋へと向かうのが見えた。 「近衛殿、火桶を持ってきた」  火鉢のようなものを抱えた大納言が部屋へと入ってきた。 「帳の中へ!」  姫君を見ると、彼女は目を開けてこちらを見ていた。少し驚いたが、しかし、彼女の目の焦点は俺に合ってはいない。俺の更に向こう側に何かを見ているようだった。その何かに、彼女は手を伸ばそうとしている。 「ああ、大納言様……」 「姫、私はここに」  大納言が彼女の手を取った。しかし、彼女の目は遠いどこかを見たままだ。  と、彼女の体全体から靄の様なものが染み出してくる。それらが、陽炎のように揺らめき、そして湧き上がると、あの木と土のような『死』の匂いがさらに一層強いものとなって帳の中に立ち込めた。 「姫、しっかりなさいませ!」  必死に呼びかける大納言の手に握られていた彼女の手から、力がすっと抜け落ちる。大納言の叫びが虚しく響いた。  彼女の体から抜け出た靄は、キラキラと光る粒となって、次第に広がるように上へと昇っていく。 『死ぬ瞬間に魂が肉体から離れるから』  ふと、ルースの言葉を思い出した。  これが……魂、なのか?  墓場に飛んでいる、しっぽの付いた火の玉のようなものを想像していた。しかし、目の前の光景はそれとは全く異なり、どことなく幻想的だ。  光り輝く数多の粒はどんどんと広がりながら立ち昇り、次第に薄れていく。 『消えないうちに呼びかければいいんだよ。おいで、って』  俺は無意識に、ただ今際の際に関わりあっただけの少女の魂に向けて、手を差し伸べた。  その少女の魂を集めたいとか、救いたいとか、ましてや逝かないでくれなどといった、感傷的な気持ちは全く起こらない。名も知らぬ少女。彼女の人生において、俺は全くの偶然に邂逅した人間に過ぎないのだから。 「おいで」  ただ、何かそうしなければならないような気がして、彼女の魂に呼びかけてみる。しかし、光りながら薄れていく魂に何の変化も見られなかった。  俺では魂を集めることは無理なのか。  これは明らかに『選別』の末のことではない。ただ、偶然で瞬間的でしかない邂逅。 「おいで。一緒に行こう」  しかし、この偶然はこの少女にとっては運命だったのかもしれない。だからこそ、後で後悔しないようにと、もう一度だけ呼びかけた。  と、薄く広がっていた光の粒たちが動きを止める。  彼女の魂が、俺の声に応えた。

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