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人として、死神として①
人の『死』を見たのは、今までに三回あった。
一回目は、お酒の飲みすぎで肝臓を壊して死んだ祖父だった。
まだ幼かった俺は、死というものがどういうものかわからず、何の感情も湧いてこなかったが、ただ周りの人が泣いているのを見て、何か悲しいことが起こっていることを感じ取った。だから泣いた。悲しかったわけではない。周りの人間に合わせただけだった。
二回目は父だった。
アル中だったが、肝臓を壊す前に癌で死んだ。当時高校一年生だった俺は、危ないと聞いて病院に見舞いに行ったが、父は苦痛と憎悪の眼で俺を睨み、「死に際でも見に来たか」と毒づいた。死んだのはその三日後だった。
一度だけ見舞いに行った時、「酒をくれ」という眼をした父を見て、父を憐れに思った。それが嫌に思えたから、それ以降行かなくなっていた。父の亡骸を見て、ほとんど見舞いに行かなかったことを少しだけ後悔したが、悲しくはなかった。
死に際に恨み言を言われたのは忘れられない負の記憶として俺の脳に刻まれはしたが、死は父にとって、アルコールからの、そして癌による激痛からの解放だった。
そう思ったからかもしれない、父の葬式で俺は笑っていた。周りの人はそれを陰で非難していたらしい。それを後で母から聞いた。でも別に気にはならなかった。
三回目は祖母だった。ついこの間のことだ。
息子である父に先立たれて以降、特に俺をかわいがってくれた。感染性の心内膜炎を患い、緊急入院した。手術が決まっていたが、抗生物質のアレルギーや肺炎を発症したのが原因で延び延びになった後、ようやく実施が決まった手術の前日に脳出血を起こし、そのまま帰らぬ人となった。その前日まで毎日見舞って、話し相手になったり浮腫む足をマッサージしてあげたりしていたが、それは父の時のことが頭にあったからかもしれない。
だから後悔はなかった。葬式では笑わなかったが、冷たくなった祖母に触れても、悲しいという感情は湧いてこなかった。
それぞれに理由がある。だから悲しくはない――
俺は今までそう思っていたのだが、どうもそうではないらしい。
死を現実のものとして捉えることができず、何かテレビやゲームの中で起こっていることとしか感じていないのだ。肉親すらそうだった。ましてや今日会ったばかりの人に対しては、当然のことだろう。
そのことが、今日、二つの死を目の前にして、分かった。
拡散しながら薄れゆく光の一粒一粒は蛍の光よりも小さいものだったが、それらがまるで意思を持つように再び俺の掌へと向かって集まりだした。
集まった光の粒は、お互いに寄り合い、見る見るうちに大きな塊になっていく。
掌からあふれる位になった時、全ての粒が形を失い一体となって混ざり合い大きな光の玉となったが、次の瞬間、それは忽然と消えてなくなってしまった。
「あ、あれ?」
そのまま玉の形でついてくるのかと思っていたが、そうではないらしい。それどころか、姫君の魂の存在を自分の体の中に感じるのだ。
ちょっと待て。これって、憑依とか、そんな感じなのか?
予想外の展開に、しばらく体に異変が出ないかどうか待ってみたが、何も起こりそうにない。
ふうと息を吐いたところで、怪訝そうにこちらを見ている大納言に気が付いた。
「な、なんですか?」
「いや、君こそ何を?」
姫君が息を引き取ったというのに、あらぬ方向へ手を伸ばして、「おいで」などと独り言をつぶやく人間は、さぞかし奇妙に、いや不気味に映ったことだろう。
そう、まるで『死神』のように。
ルースの話を聞いたとき、俺はルースのことを死神だと思った。命婦は、その死に際にルースたちのことを死神だといった。
それにしても、この世界の人間、例えば目の前にいる大納言には、死神という概念があるのだろうか。命婦は、さらに何かを言おうとしていたが――
「す、すみません。魂に……姫君の魂に呼びかけていました」
どう考えても、頭が湧いてる人間の言葉だったが、大納言はそうは取らなかったようだ。
「い、生き返るのか?」
この世界の『想定内』ということだろうか。疑いの中にも希望と懇願がない交ぜになった声で大納言は尋ねてきた。
だが、それに対して俺はゆっくりと首を振る。
「いえ……そう、ですね。極楽浄土、みたいなところへ、お連れします」
嘘を言ったところでうまく説明できないし、本当のことを言ったところで嘘にしか聞こえないだろう。そう思って、この世界に合ってそうなことを口にしてみた。いや、それが本当なのかどうかも、俺にはわからないのだが。
しかし、彼は驚いた様子で、「君は阿弥陀の化身か何かか?」と眼を見開いて尋ねてきた。
「いえいえ、そんな立派なものじゃないです。んー、知り合いみたいな?」
自分でも何を口走っているのかわからなくなってきたが、大納言は真顔で「そうか。なら姫君をよろしく頼む。君がいてくれて良かった」と俺に頭を下げたのだった。
これまでの俺の行為が、大納言にどのような印象を与えていたのかはわからない。ただ彼は、俺が人に非ざる者と関わり合いを持っているという点を疑ってはいなかったし、それを良い方に捉えてくれているようだった。
「必ず」
俺はそう大納言に約束した。
でも考えてみれば、俺は姫君の|為人《ひととなり》はおろか、名前さえ知らない。その彼女の魂は今俺の中にいる。奇妙な感覚だった。
その後しばらく、大納言も周りの女性たちも姫君の死を嘆き悲しんでいた。とはいうものの、その場にいた全員が全員とも、姫君の亡骸の傍ではなく、部屋の外にいた。
死は『穢れ』なのだ。死者に近づくことは限られた人間しか行わない。
しかし病気が細菌やウィルスの仕業であるとは知らなかった時代、ある意味身を守るのに合理的な態度だと言える。それを責める気にはなれなかった。
ただ、大納言だけはすぐに家来を呼んで、何事かを話していた。内容は分からなかったが、それが終わったら姫君の話を聞こうと思い、俺は皆から少し離れたところでその様子を見ていた。
ルースは、大丈夫だろうか。まあ、ルースに何かあったらあの陰陽師がここに戻ってくるはずで、それが無いということは大丈夫なのだろう。
そんなことを考えながら。
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