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キャンパスライフにさよならを⑥
家に帰るとすぐに、俺は母親に電話を掛けた。
父親が死んで以降、母親は「今までの分を取り返すために気楽に生きてやるわ」と宣言し、実際気楽に生きている。
いや、やっている自営業はそこまで気楽なものではないだろうが、上手く切り盛りしているようだ。母親には商才があるのかもしれない。
残念なことに、俺はそういう才能を受け継がなかったようだが。
「好きにすれば?」
旅に出る、などと意味不明なことを口走った息子に対し、答えはそれだけだった。
もう手の離れた息子に関わっている暇は無いとでも言いたげだ。何かあったら連絡はすると伝えた俺に、墓守だけはちゃんとしてねとだけ返すと、母親は電話を切ってしまった。
適当なのか、俺を信用しているのか。
まあ、父親のせいで随分窮屈な思いをしてきた母親にとって、今の生活は快適そのものなのだろう。
このマンションも本当は母親が一人暮らしするために買ったものだ。今はお店に寝泊まりしているので、俺が一人で使っている。
しばらく家を空けてもいいように片付けと身支度をし始めたが、生来整理整頓が苦手な俺には苦行以外の何物でもない。
結局、何となく納得がいく形になったのは、夜も暗くなってからだった。
「さて、どうするか」
体の調子に異変はない。なら綺美に会いに、と思ってすぐ考え直した。せめて明日まで、我慢しよう。
ソファに座り、クリーム色の天井を見上げると、ゆっくりと息を吐き出した。
考えてみれば、ルースがこの部屋に現れてからまだ五日しか経っていない。
加奈に振られ、公務員試験に落ち、ルースに会い、綺美に会い、ヒーノフとフィスに殺されかけた……
もう一ヶ月以上経った感じがする。
この部屋は何も変わっていない。
でも俺は、戻れない道を進もうとしている。
それでいいのか?
バイトで貯めたお金はそれなりにある。でも、いくら家賃が要らないと言っても、一年普通に生活すればお金は尽きそうだ。
そういや、ルースたちは普段何を食べているんだろう。
結局ランチ代は俺が出したし。お金持ってるんだろうか。
身分的には来春からニートだ。
バイトするなり、就職活動するなり、全うに生きたほうがいいのかもしれない。
いや、でももうそれは捨てたのだ。
行き詰ったら、その時に考えよう。
俺は少しお腹のすいた胃袋の中に、簡単な食事を流し込むと、風呂を済ませて早めの眠りについた。
※ ※
十一月も終わりになると、朝はかなり冷える。
早く寝た分早く目が覚めたようで、窓の外はまだ暗い。目覚まし時計を見たが、六時にもなっていなかった。
ふと、隣に誰もいないことに少し寂しさを感じる。人間、手に入れれば手に入れるほど贅沢になっていくのだなと、少し可笑しくなった。
「ルースも、フィスもいないのか」
独り言をつぶやいてみる。
「へえ、アタシのことも考えてくれているのね」
「うわあ! な、なんでいるんだよ」
俺の足元のさらに先、ベッドの隅に腰かけている人影があった。
「アナタの主からの伝言よ。もう一つの世界での魂集め、がんばってくれ、だってさ」
あまり似ていない物真似で、フィスはルースからの言葉を伝えた。
非常灯すらついていない中では、シルエットしか見えない。
「あ、ありがとう。ルースはここにこれないほど忙しいのか?」
「まあ、そうかしら」
……普段、こいつらは何をやってるんだろう。
「ルースもフィスも、魂集めしているとき以外はどうしてるんだ? 寝たり、食べたりとか」
「寝るのは、『自分の空間』で寝るわよ。でも食べる方は、別に食べないなら食べないで済むわね」
「そ、そうなのか?」
衝撃の事実だった。
「アナタも眷属になったのだから、もうそうなってるわよ」
さらに衝撃の事実だった。
「いや、でも体は人間のままだと思うし、お腹も減るぞ?」
「ああ、『アナタの主』が暫く魂集めをさぼっていたからだわね」
「それ、どういうことだ?」
「……聞いてないの?」
「あ、ああ……聞かなかった」
そういや、何も聞かなかったな。
「全く呆れたわね。どうする? ルースに訊く? それともアタシから聞く?」
魂集めと空腹、どういう関係があるんだ? ルースは、魂集めを「消滅させないため」とか言ってたはずだ。
嘘、なのか?
それとも、他に何かあるのか。
「ルースから聞く。ごめん、世話をかけっぱなし、かな」
聞かなかった俺が悪いのだ。
「良いのよ。アナタには感謝してるから」
「ん? それこそ、感謝されるようなことはしてないぞ」
「『ゲーム』をスタートさせたのは、アナタだから」
「別に、そうする為に行動したわけじゃないし。ってか、まだその『ゲーム』の内容が分かんないんだけど」
「それは禁忌。ルースから聞かなかった? まあ、アナタがどう考えようが、結果は結果、感謝してる。だから、アナタにお礼をしてあげるわ」
布がこすれる音とともに、フィスがこちらににじり寄ってくるのが分かった。
「いいのよ?」
何をと言いかけて、言葉を飲み込んだ。
窓からこぼれるまだ日の出前の仄かな光が、アオザイの胸元がしどけなく開けられ露わになったダークグレーの胸と、それを微かに隠すように掛かるロングヘアを浮かび上がらせた。
モノクロ写真のようなフィスの姿の中で、瞳だけが金色に妖しく光っている。
「アタシを抱いても」
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