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危険な香り①
一応昼まで待って、体も状況も変化がないのを確認した。もうインフルも大丈夫だろう。クローゼットの扉を開けると、向こう側にあの宇宙のような空間が広がっていた。
これまでは、なんだかんだ言っても、不安な中でこの扉をくぐったものだが、今はもうそんな不安や怖さは微塵も感じない。
これが眷属の意識なのだろうか。それとも、ルースへの信頼がもたらす感覚なのだろうか。
それにしても――フィスを怒らせてしまったようだ。
フィスの行動が不可解すぎる。気にはなるが、しかしそれを今考えたところで答えが出るものではないだろう。
今は、綺美のことで頭がいっぱいなのだ。
以前と違って、この宇宙的空間の中のものがかなり鮮明に見えるようになった。行こうと思えば、他の扉にも行けそうだったが、扉の向こう側が一体どんな世界なのかわからない状態で、知らない扉に入るのは自殺行為と言えるだろう。
俺の視線の先には、見覚えのある格子の付いた扉がある。
綺美のいる世界。
二晩空いてしまったが、綺美はどうしているだろうか。
……怒ってるかなぁ。
はやる心を抑えながら格子扉まで来ると、俺は一呼吸をしてから、ゆっくりと扉を開けた。
もう秋も深まった弱弱しい太陽が、正面から屋敷を照らしていた。太陽の位置からすれば昼過ぎくらいだろう。
セーターの上にレザージャケットを着てきたが、今日は随分と暖かかった。
相変わらずこの世界の住人からすれば、俺は珍妙な格好をしているのだろうなと他人事のように苦笑してしまう。
屋敷の方を見てみたが、これ以上さびれることはないだろうと思うほどの屋敷の荒れ具合に、別段変わった様子はなかった。
長く伸びた雑草は晩秋の色に染まっていて、草紅葉の庭になっている。
屋敷は塀で囲まれてはいるが、外に目をやると東にやや小高い山の尾根が遠く見え、すっかり色づいている。
紅葉か……綺美は紅葉を見に行ったこととかあるのだろうか。
再び屋敷の方へと目をやる。御簾はすべて閉じられていて、誰の声も聞こえてはこない。
ゆっくりと屋敷に上がる階段に近づき、少しためらった後、階段に腰かけた。
二日会わなかっただけなのだが、なんとなくどういう顔をして会えばいいかが分からなかった。
ルースと結ばれてしまったから、という後ろめたさはない。もうそれは捨ててきた。
今俺が感じているのは、恋人に久しぶりに再会する、その直前の感情だ。
スマホも携帯もないから、会えない間は連絡のしようがない。昔はおろか、現代の日本でもほんの数十年前まではそうだったのだから、昔の恋人達はどうやって会えない時間を過ごしていたのだろうと、少し思いを馳せる。
ふと、風に交じって、琴の音が後ろから聞こえてきた。
短調の、少し切ない感じの音色を、しばらくそのまま聴き続ける。
と、突然琴の音が止んだ。
俺はシューズを脱いで階段を上がり、御簾の傍に腰を下ろす。
「物忌みは済みしや?」
いつから俺に気付いていたのだろうか。
相変わらず素っ気ない物言いだったが、それが却って俺を安心させた。
「ああ、もう大丈夫」
インフルエンザもない。
丹波の姫君は――気にしなくていいらしい。
ルースは今は魂集めをしていることだろう。俺にもしろと言っていた。
うんうん、しばらくはここにいれるかな。
そういえば、フィスの話……一体、カミアンはなぜ人間の魂を集めているのか。
なぜだろう。ルースに聞けば、本当のことを教えてくれるだろうか。
「中へ」
綺美が再び言葉を発した。
俺はその言葉に素直に従い、御簾の中に入る。琴を前に、相変わらず扇子で顔を隠した綺美が、その碧眼で俺を見つめていた。
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