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危険な香り②
「ただいま」
少しのぎこちなさを自覚する。
「ただいま、とは何ぞや?」
俺の言葉に、綺美がそう返した。
「ただ今帰りました、という挨拶だよ」
「ふむ。そなたの世の挨拶なるか」
「もう『俺の世』じゃなくなった。『俺が生まれた世の挨拶』、かな」
綺美は不機嫌さと不可思議さを満々とたたえた瞳で、俺の心の中に入ろうかというくらい俺の眼をじっと見つめている。
俺は綺美のその眼を、自分でも不思議なくらいの愛しさで見つめ返した。
ふと、綺美がその瞳を閉じる。そして、おもむろに扇子を下ろした。
少し垂れ気味の目と広いおでこ、やや高い鼻、そしてすっきりとした顎のライン。その異国情緒あふれる顔が、御簾を通して部屋に差し込む光の中に、はっきりと映し出された。
しかしこうしてじっくり見ると、日本人の特徴が端々に見えて、やはり綺美はハーフなのだと改めて感じる。
男性であるにもかかわらず、かわいらしさとそして美しさが、綺美の顔にはアンバランスに混在していた。
綺美が、ゆっくりと眼を開ける。その瞳、今までに見たことがなかった程の穏やかな空のような深青。俺がじっと見つめても、綺美は顔を赤らめつつも、顔を隠そうとはしない。
「傍へ……来るがよい」
二日前、俺がここを発つ時の不機嫌さを思い出すと、綺美の嫌味が百も二百も発せられるのかと覚悟していたが、彼にその気は無い様だ。
綺美の傍に寄る。
「今日はまた、いと怪しき装束なるぞかし」
綺美はそう言いながら、俺のレザージャケットとセーターを交互に触れる。
「鹿の皮と羊の毛の服だね」
「鹿? 羊? コノエは、まことに不思議なるぞ」
物珍し気に一通り触った後、綺美はもう一度俺の眼を覗き込んだ。
「ただいま、と言われし後は、いかなる返事かすべき」
そんな綺美の言葉を聞いて、俺は愛しさが心の中から溢れ出てしまい、綺美を静かに抱き寄せた。
そして耳元に口を寄せ、そっとつぶやく。
「おかえり、かな」
抵抗することなく俺に抱かれたまま、綺美も俺の耳元で囁くように答えた。
「ふむ……おかえり、なるぞ」
綺美は俺の背中に手を回すと、きゅっと力を入れる。
黒くつややかな長い髪は、丁寧に手入れをしているらしく、柑橘系の香りがほのかに鼻腔をくすぐる。それに対して、いつものように一番上に羽織っているセーブルのコートにはお香が焚き染められていて、木と土の匂いが漂ってくる……
お、おい、ちょっと待て。
「綺美、この匂いは?」
心臓が跳ねたような気がした。この匂いは……
「匂い?」
「うん。表着の匂い。なんか木と土の匂いがする。前と違うような気がするんだけど」
抱き合ったまま、綺美に匂いの原因を聞いてみた。
「ああ、香を替えたゆえ」
「お香? 木とか土の匂いがするやつなのか?」
「沈香と霍香の匂いにぞ。気に入らぬや?」
お香の種類や成分はとんと分からない。ただ、あの死の匂いと少し似ていたので驚いたのだが、そういう匂いのお香もあるんだと、納得する。
「いや、いい匂いだよ」
びっくりさせないでくれよ。
俺は一息つくと、綺美の黒髪を軽く撫でる。綺美はさらに強く、俺を抱きしめてきた。
突然、きゃっという軽い悲鳴が聞こえたので、俺は慌てて綺美から体を離そうとしたが、綺美が俺を離さなかったため、綺美が俺の上にのしかかるような格好で倒れてしまった。
床から見上げる視界の中、藤が驚いた表情のまま固まっている。
「や、やあ」
藤の方へ、顔だけを向けて間の抜けた挨拶をする。
ちょっと、いや、かなり恥ずかしい。
しかし、綺美がした反応は――俺を十分に驚かせるものだった。
「藤、いかなる用にや」
言葉ではない。綺美は俺を抱きしめたままの状態で、藤に『何の用か』と訊いたのだ。
綺美は、藤が見ていることを全く気にしていない。この時代、というかこの世界の人間にとって、人前で抱き合うという行為は『はしたない』ものだろうに。
藤は答えられないまま、茫然と突っ立っている。すると綺美は、俺を抱きしめていた腕を離して少しだけ体を起こした。しかし、その瞳は藤に向けられることはなく、至近距離から俺の眼を覗き込んでいる。
そして綺美の瞳の中で、あの『渇望』達が踊り始めた……
え?
綺美はそのままゆっくりと、その唇を俺に近づける。
藤が見ているのを気にしていないどころか、まるで藤に見せつけるかのように。
「し、失礼しました!」
我に返った藤はそれだけを言い残し、パタパタという足音を残して部屋から去っていった。
「き、綺美?」
唇が触れる寸前で綺美の動きが止まる。そして跳ねるように身を起こすと、そのまま後ろを向いてしまった。
「ど、どうしたの?」
俺の言葉に返事をすることなく、綺美は床に落ちていた扇子を這いつくばるように拾い上げ、慌てて顔を隠す。
「綺美?」
「しばし……しばし、我を一人に」
そう言うと、綺美はそそくさと立ち上がり、寝所の方へと退いてしまった。
「おーい、おーい!」
寝所のほうへ呼びかけても返事はない。
「どういうことだ」
もう一度、綺美の言動を思い出してはみたが、その原因に思い当たるものがない。以前にも見た、綺美の碧眼の中で踊る『渇望』――
誰かに愛されたいという『渇き』が故のものだと思っていたが、そうじゃないのだろうか。
綺美が寝所に行ってしまったので、ここにいても仕方がなくなってしまった。俺は、少し考えた後、意を決して立ち上がり、厨の方へと向かった。
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