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危険な香り③

 藤と話そうと思い、厨に来てみて驚いた。  先日までのがらんとした状況とは一変して、米や野菜のほか、よくわからないものがたくさん積まれてあったのだ。 「なんだ、こりゃ」  思わず声を上げてしまった俺の横から、声がかかる。 「大納言様が届けてくださいました」  視線を向けたその先に、藤が立っていた。 「そ、そうか。それは、よかった」  さっきのことを思い出すと、途端に言葉に行き詰る。何を話しに来たのか、頭から飛んでしまった。 「はい。かなり厨の状況が切迫していましたので、ほんと助かりました。これも近衛様のおかげです」  深々と頭を下げる藤を見て、俺は少し違和感を感じる。 「あ、や、別に俺、大したことしてないし。大納言にお礼を言わなきゃな」 「そ、そうですね」  そして、気まずい時間が流れた。 「えっと、さ、さっきは、その、ごめん」  俺が悪いわけでも何でもないのだが、 「いえ、私の方こそ、近衛様が帰ってこられていたとは知らなかったものでして」 「何か用だったんじゃないの?」 「琴の音が止まったので、様子を見に」  言葉の端々で、歯切れの悪さが目立つ。  やはり、いつもの藤ではなかった。 「そ、そうだったんだ。いや、なんか、宮様が……」 「あ、あの、すみません、少し用事をしなければなりませんので、あ、あの」 「そ、そっか。呼び止めてごめん」 「いえ、すみません、では」  藤は会話をさっさと切り上げて、そそくさと奥へと姿を消してしまった。  まさか、このまま追いかけるわけにもいかない。藤の反応を見ようとここへ来たものの、その反応は予想以上によそよそしくなってしまっていた。  まあ、しかたないか。  そうは思いながらも、何か心に引っかかる違和感が消えていない。  だが、その違和感の正体が何なのかが分からないのだ。  藤は俺と綺美の関係をもちろん知っているだろうし、そもそも初めて綺美と結ばれた時にも、見てたか聞いてたかしていたはずだ。  大納言の屋敷に行った時にも、何だか意味深なことを言っていたくらいだし。  そう、藤のよそよそしい反応には、今更感を強く感じてしまうのだ。  俺と綺美の抱き合う姿を見せられたから、というのとは違う、何かしらの原因があるのだろうか。  まさか、大納言から食料なり何なりが届けられたから、でもないだろう。  藤の目――快活な少年の目。好奇心が旺盛そうで、明るくて。でもさっきの藤の目には、何か今までに見たことのない感情があった。それが何かがわからない。  厨の床に座り込み、しばらく考えを巡らせてみても、一向に違和感の原因は思い当たらなかった。  しょうがないな。  考えても答えが出ないのなら、考える必要はない。もう用のなくなった厨から立ち去ろうと腰を上げかけたその時、奥の扉からこちらを覗き見る視線に気が付いた。  水干姿の男の子が、顔の左半分だけを出して、こちらを見ている。  姿形は藤とそっくりだが、表情には全く生気が感じられない。耳の聞こえない少年、桐だった。 「やあ、桐」  聞こえないだろうが、俺はにこやかに笑いながら軽く右手を上げて、桐に挨拶をした。  それにしても、この奥は一体どういう構造になっているのだろう。藤と桐、そして播磨が住んでいるのがこの西の方のはずで、綺美の寝室がある北の方とは直接は繋がっておらず、母屋を経由してそれぞれ行き来している。  ということは、西の方に綺美以外の三人が寝泊まりしているはずなのだが、三人は一緒に寝ているのだろうか?  桐は俺の挨拶には反応することなく、かと言って立ち去ることもなく、そのままの状態で俺を見つめていた。  どこか、俺の様子をじっとうかがっている風だ。  午後の明るさは厨にも差し込んでいて、以前と違い、桐の顔がはっきりと見えている。  そして気付いた。  そうか。さっき俺を見ていた藤の目。表情こそ違うが、桐が今俺を見ているのと同じ目をしていた。  この目……これも以前、桐が俺を見ていた目とは違う。あの渇望も今は見えない。  いや、これは……まるで、敵か味方かを伺っているような目だ。  どういうことだ?  桐がそういう目で見るのはわからなくはない。なんだかんだで、桐とは二回ほどしか会ったことがないのだ。この子が俺を警戒するのはよくわかる。  でも、藤がなぜそんな目で俺を見る?  さっき感じた違和感の正体は、これに違いない。しかし、桐の姿に藤の姿を重ねて答えを探そうとしても、新たに湧き上がってきた疑問は解消できそうになかった。  と、桐がゆっくりと厨の中へ入ってくる。俺は床に座ったまま、それを見つめていた。  まだあどけなさが色濃く残る可愛らしい顔の中にも、少しずつ大人っぽさが現れてくる年頃だろうか。  藤みたいににこやかにしていれば、誰にでも好かれるような男の子だろうに、まるで能面のような無表情さがそのすべてを台無しにしている。  桐は俺の前へ来ると、両膝をついて俺の目を覗き込んだ。  髪はセンターで左右に分けられ、両耳のところで上下に輪っかをつくるように束ねられている。  桐が、俺を正面に見据えながら、その手を俺の方へと伸ばしてきた。  桐がしようとしていること。それが俺にはもうわかる。  俺は抵抗することなく、彼のすることを受け入れた。  桐の手が俺の首へと延びる。そして俺の目を見つめたまま、俺の首を絞めた。  軽く。  桐の目の中にある感情。それがはっきりと見えた。  怯え。これは、怯えだ。  俺を怖がっているのだ。  桐が。  ということはつまり、藤も俺を怖がっている?  なぜだ?  そう疑問に思った時、俺の首を絞める手に力が入った。

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