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危険な香り⑦

 考えてみればインフルエンザだのなんなのとあったので、どのみち回避できない事態だったのだ。  どうしようもなかったと言えばそれまでなんだが……  一体、昨日の綺美は、どんな様子だったのだろう。  ちょっと怖い想像が頭をよぎったので、それ以上は考えないことにした。 「ほら、今度はちゃんと、三夜連続、綺美の傍にいるから」  俺の胸に顔を押し付けている綺美の耳元でそう囁く。そして優しく綺美の体を包み込むように抱きしめると、顔が見えるように体を離し、ややほっそりとした綺美のあごを右手の人差し指で軽く持ち上げた。  吸い込まれるようなサファイアンブルーの瞳。  その瞳を覗き込んで、と、俺は奇妙な違和感を覚えた。  見つめあう二人。そのはずなのだが―― 「綺美、どこを見ているんだ?」  綺美の碧眼が俺を見ているようで、見ていない。そんな気がしたのだ。  と、それは突然だった。 「この、死神め!」  綺美が叫び声をあげる。そして俺の首に手をかけると、俺を寝台へと押し倒した。 「綺美、どうした……」  綺美が俺の目を睨みつける。一体何が起こったのか、俺には理解できなかった。  綺美はひとしきり俺の首を押さえつけたあと、急にハッとした表情へと変わる。突然、我に返ったかのように。そして綺美の手から力が抜けた。  俺は、急いで体を起こし、そっと右手を綺美の頬へと伸ばす。しかし綺美は俺の手を激しく払いのけてしまった。 「綺美」 「往ね! ここより往ね!」  髪を振り乱しながら、綺美は俺に『出てって』と叫ぶと、手に取った衣で俺を力いっぱい叩き出した。  綺美を落ち着かせようと、俺は様々な言葉を投げかけたが、綺美は『出てって』と繰り返すばかりで全く取り合おうとはしない。  仕方なく帳の外へ出ると、綺美は「二度と来ぬがよい!」と言ったまま、衣の中へと潜り込んでしまった。  この状況で掛ける言葉を俺は知らない。  一体、何がなんやら――  このままではどうにも埒が明かない。 「夜にまた来るよ」  俺はそう声を掛けると、その言葉にも全く反応しようとしない綺美を後に残し、寝所を後にした。 ※  万事うまくいく。そう思ってこの世界に戻ってきたのに、状況は惨憺たるものだった。綺美はおろか、藤や桐までも様子がおかしい。  正直俺も頭が混乱している。とりあえずの状況を頭で整理したほうがいいだろう。  屋敷の外を散策でもしようか。  冬に差し掛かった空気は、昼間とはいっても、ひんやりと肌を冷やす。夜にでもなれば、刺すような冷たさになるに違いない。  ゆっくりと歩きながら、俺は一連の「おかしさ」の原因に思いめぐらせた。とはいっても、前回と今とで大きく変わったものと言えば、俺には一つしか思い浮かばない。  眷属。  俺自身に全く実感がわかないために全く意識していなかったのだが、俺がルースの眷属になったということが原因だとしか考えられなかった。  しかしそのことが、なぜ、どのように影響しているのかは、全く見当つかない。そもそも、藤や桐、そして綺美には、『俺が変わった』ということが分かるのだろうか。  例えば、藤。彼はどうも俺を怯えた目で見ていたようだ。  なぜ怯える?  桐なら分かる。でも、あれだけ親しく接してくれていた藤の変化は、藤が俺の変化に気付いたとしか思えない。  眷属の体からは漂うようなオーラでも出ているのだろうか。  ――この、死神め!  綺美の言葉がよみがえる。  うそだろ……  今の俺は『死神』に見えるのだろうか。だから皆おびえだしたのか?  自分の体をはたいたり、振ってみたり、果ては犬のように嗅いでみる。  いや、全然分かんねぇ……そんな『気配』は無いんだけど。  そこで俺はもう一つのことに気が付いた。  綺美が最初『変』だったのは、自分の『モノ』の変化に戸惑っていたからだ。俺の変化に反応したからじゃない。  綺美がいきなりおかしくなったのは、俺の目を見てから――  目? 何かあるんだろうか。  辺りを見回したが、草、木、収穫の終わった田んぼがあるだけで、鏡のようなものはない。  スマホでもあれば確認できるだろうが、もう必要ないだろうと思い、家に置いてきてしまった。  家に戻るか――  そう考えたとき、ふとあることを思いついた。  大納言。  この世界で俺を知っている人間の中で、話が出来そうなのは大納言しかいない。いつでも会いに来てくれと言っていた。  ただ、彼は今物忌み中である可能性が高い。  どうするか。  まあ、何かを急ぐ必要はない。もう俺には時間がたくさんあるのだから。  魂を集めろとも言われているし、無駄足になることを覚悟の上で、とりあえず大納言のところに行ってみようか。  そう思い、俺は止まっていた足をまた動かした。

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