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這い寄る蔓の先に③

「お……」  綺美が何か言おうとして、口をつぐむ。 「お?」  また暫く沈黙が流れる。俺は綺美がその言葉を口に出すまで、気長に待った。急がなくてはならない理由は、もう俺にはないのだ。 「お……かえり、なる、ぞ」  その言葉。これほど嬉しい言葉を聞いたのはいつ以来だろう。今日一日俺を悩まし続けた疑問の全てが、取るに足らない馬鹿馬鹿しいものになった。  全く本当に度し難いな、俺は。危うく、大切なものを見失うところだったのだ。 「ただいま、綺美」  俺はそう言うと、御簾を押し開けて、部屋の中へと入った。 「な、何を。我は、入りてもよいとは、言うておらぬに」 「言い訳と謝罪は、後でゆっくり聞かせるよ」  俺は驚く綺美を、有無を言わせず抱き寄せた。  そう、綺美はここにいるのだ。この声、この腕に掛かる重さ、そして立ち上る体の匂い。もしかしたら俺の声が届いてないかもしれなくても、そして綺美がどんな存在だったとしても、綺美は確かにここにいるのだ。 「コノエ……我は……」 「何も、何も言わなくていいよ」  月明かりもない、蝋燭の灯りもない、そんな暗闇の中、俺は綺美の額に自分の額を押し付けた。 「愛してる。綺美、愛してるよ」  少し綺美の額が揺れて、その後、その揺れが繰り返されて、嗚咽が漏れる。  涙が、俺の鼻を濡らし、嗚咽がどんどんと大きくなっていった。  綺美の体を強く抱きしめる。  すると綺美が、俺の体を強く抱きしめ返してきた。 「我も、コノエを」  綺美がそのまま、俺の肩に顎をのせる。 「ア、イ、シ、テ、ル」  二人、唇を合わし、しばらくの間互いの舌と舌を絡めあった。  日が落ちると、部屋の中にどこからともなく冷気が流れ込んでくる。体を寄せ合って過ごすには、ちょうどいい夜だ。  その後そのまま二人で寝所に行き、俺は自分の子供の頃のこと、両親のこと、そして大学のことなどを、綺美に話して聞かせた。ただ、『死神』というワードは出せていない。  俺の話の一つ一つに、不思議がったり驚いたり、時には笑ったりと、綺美は様々な反応を見せている。 「ふむ、では真に元の世に妻はおらぬのか?」 「いない、いない。まだ結婚するような年じゃないんだ。ま、まあ、俺の年くらいで結婚している人は、いるにはいるんだけどね」 「そういうものなのか」 「そういうもの、かな?」  ふむ、とつぶやいて、綺美は少し何かを考えている。 「どうしたの?」 「コノエが我との婚儀を『どぎゃん』したるは、それ故にや?」  ……ど、どぎゃん? 「どぎゃんって、何?」 「コノエが言いし言葉ぞ。どぎゃん」  俺は頭の中にある記憶のゴミ溜めの中を、ひっくり返して探し回る。  そして、ある言葉に到達した。 「あ、ああ、ドタキャンね!」 「さよう、さよう」  俺は驚いて、綺美をじっと見つめた。  もう外は夜になっていて、辺りは弱々しい月明りにぼんやりと照らされているだけだったが、俺が見つめているのに気が付いた綺美は、思い出したかのように衣を手に取り、顔を鼻のところまで隠してしまう。 「い、いかに、いかに」 『どうしたの、どうしたの』と言う綺美の口元に、俺は指を近づけた。衣の上から、綺美の口に触れる。 「綺美。『ドタキャン』って、言ってみて」  綺美は一瞬、不思議そうな顔をしたが、衣で口を隠したままゆっくりとつぶやいた。 「ど、た、きゃ、ん」  口が、その音の通りに動いていた。  俺はうれしくなって、綺美をまた抱きしめる。  綺美の言葉がそのまま俺の耳に届いているだけじゃない。  俺の言葉も、その音のまま、綺美の耳に届いているのだ。  意思疎通ができるのならば、言葉なんて必要ないのかもしれない。しかし、声が届いているという事実自体が、何故か俺にはうれしかった。  それと同時に湧き起こる疑問。俺はそれを綺美にぶつけてみることにした。 「綺美、俺の言葉が何故わかるんだ? 綺美の話している言葉とは少し違うと思うんだけど」  そう訊いた俺の疑問に、綺美は何の迷いもなくすぐに答える。 「コノエが話すは、『方言』というものならん。昔は播磨も、コノエと同じ様なる言葉を使いしぞ。されば、コノエの言葉も分からぬではない」  綺美の口から、意外な事実と意外な人物の名前が出てきた。  播磨が、俺と同じような言葉を使っていた?  播磨はしゃべれないんじゃないのか? 「播磨って、あの人が? あの人、話せないんじゃないのか?」 「昔は話しておりしに」 「昔は? え、じゃあ、いつから話せなくなったんだ?」  その言葉には、綺美はすぐに返事をしなかった。何か言い難そうにこちらを見つめてる。 「あ、ごめん、言えないことなら言わなくて……」  そう口にした俺の言葉を遮って、綺美が口を開く。 「お父上が……お隠れになりし後より」  それだけ言って、また綺美は口を閉じた。  俺はせっかくの雰囲気の中、地雷を踏んでしまったことを後悔したが、それ以上に、綺美の父親が死んだことと播磨がしゃべらなくなったこととがどう関係あるのか全く想像できず、困惑してしまった。  考え事をするのにかなり深刻な表情をしてしまったのだろうか、ふと綺美の方を見ると、心配そうに俺の顔をのぞき込んでいる。 「ご、ごめん。答えにくいことを聞いちゃったね。ごめんよ」 「コノエ、聞きたいことのあるぞかし」 「な、何?」 「『ごめん』とは、如何なる意味ぞ」  綺美が、真剣な声で俺に尋ねる。  ……いや、それ、通じてなかったのかよ!

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