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忘却 1

結論から言おう。 脳の手術は成功した。 運動能力も損なわれることはなかった。 難しい手術だったから大成功だと言える。 でも少しばかり問題が出た。 この1年と少しの記憶をアイツは失ってしまったのた。 まあ、若い間の1年2年だ。 やり直しはきく。 問題はない。 もう一年やり直せはいい。 長い人生からすれば大したことはなかった。 そう。 ちょうどその1年の記憶の中にいた、オレのこともすっかり忘れてしまっていたというだけで。 脳のことは。 仕方がない。 責められない。 それでもオレが、アイツの前に現れて、アイツと何度も話しでもしたなら、アイツも思い出したかもしれないとは思った。 でもそうしなかったのは。 アイツの両親がオレを尋ねてきたからだ。 あなたがいなければ、息子は世界から切り離されて生きていたままでした。 ありがとうございます。 と。 そして。 あの子に世界を与えてやってください、と。 あなたしかいない世界ではなく、と。 オレは。 それを受け入れたのだ。 オレしかいないなんて、可哀想だ。 オレは兄貴がいた。 オレを置いていったけど。 オレにはジムの仲間達が今はいる。 オレから避けていたけれど。 オレは勝手に落ち込んで拗ねて1人でいただけで、アイツのように生まれた時から1人だったわけじゃない。 オレは手を伸ばし、時に手から逃れてしまう人も、でもその手を掴み返してくれる人がいることも知っている。 それが生きて行くってことだってことも。 「あなたがいたら、あなたを思い出したなら、あの子はあなた以外を望まない」 両親の恐れはわかった。 オレには。 アイツが新しい世界を他に入れても、オレだけを求めるかどうかは疑問だったけど。 でも。 慣れた世界にしがみつく可能性はある、と思った。 1人だった世界が大きく変わるのは恐ろしいことだ。 世界に怯えて遮断して、オレだけを求めることは有り得る。 世界が変わっても。 それでも、オレだけが好きでいてくれればいい、とは思ったけれど、そういう風に求められたいわけではなかった。 オレはアイツに世界を与えたかったんだ。 オレしかいない世界ではなく。 「もし、あの子が新しい環境に慣れて、そしてあなたを思い出したなら、そしてあの子があなたを探すなら、止めません。それはあの子の意志だから」 お母さんは言った。 長く息子を愛してきて、愛されてこなくて、でも愛してきた人が。 オレより遥かに苦痛の中にいた人が。 深く愛する子供が、生きて傍にいるのに、いないのも同じだったのはどんな気持ちだったのか。 この人も。 アイツに世界を与えたいのだ。 アイツの家族も苦しんだのだ。 父親も母親も、心がないかのような息子を愛して報われず、でも愛して。 「手術の後、初めてあの子が私を視て、私に助けを求めたの」 お母さんは泣いた。 アイツは初めての世界に怯えているのだと こんなにも世界に人がいることに怯えているのだと。 怯えるアイツの隣りにいてやりたかったけど、オレを忘れているのなら、恐怖でしかないだろう。 実感はなかったかもそれないけれど、知っている存在だった母親や父親のが安心出来るだろう。 オレは。 忘れられてしまった。 アイツの脳から消えてしまった。 それほ仕方ない仕方ないことで。 それはアイツの意志ではなくて。 だからオレはそれからアイツに会わなかった。 アイツは退院したら転校して。 オレを忘れたままだった。 そしてそれから10年後。 世界が終わったのだった。

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