38 / 84
忘却 1
結論から言おう。
脳の手術は成功した。
運動能力も損なわれることはなかった。
難しい手術だったから大成功だと言える。
でも少しばかり問題が出た。
この1年と少しの記憶をアイツは失ってしまったのた。
まあ、若い間の1年2年だ。
やり直しはきく。
問題はない。
もう一年やり直せはいい。
長い人生からすれば大したことはなかった。
そう。
ちょうどその1年の記憶の中にいた、オレのこともすっかり忘れてしまっていたというだけで。
脳のことは。
仕方がない。
責められない。
それでもオレが、アイツの前に現れて、アイツと何度も話しでもしたなら、アイツも思い出したかもしれないとは思った。
でもそうしなかったのは。
アイツの両親がオレを尋ねてきたからだ。
あなたがいなければ、息子は世界から切り離されて生きていたままでした。
ありがとうございます。
と。
そして。
あの子に世界を与えてやってください、と。
あなたしかいない世界ではなく、と。
オレは。
それを受け入れたのだ。
オレしかいないなんて、可哀想だ。
オレは兄貴がいた。
オレを置いていったけど。
オレにはジムの仲間達が今はいる。
オレから避けていたけれど。
オレは勝手に落ち込んで拗ねて1人でいただけで、アイツのように生まれた時から1人だったわけじゃない。
オレは手を伸ばし、時に手から逃れてしまう人も、でもその手を掴み返してくれる人がいることも知っている。
それが生きて行くってことだってことも。
「あなたがいたら、あなたを思い出したなら、あの子はあなた以外を望まない」
両親の恐れはわかった。
オレには。
アイツが新しい世界を他に入れても、オレだけを求めるかどうかは疑問だったけど。
でも。
慣れた世界にしがみつく可能性はある、と思った。
1人だった世界が大きく変わるのは恐ろしいことだ。
世界に怯えて遮断して、オレだけを求めることは有り得る。
世界が変わっても。
それでも、オレだけが好きでいてくれればいい、とは思ったけれど、そういう風に求められたいわけではなかった。
オレはアイツに世界を与えたかったんだ。
オレしかいない世界ではなく。
「もし、あの子が新しい環境に慣れて、そしてあなたを思い出したなら、そしてあの子があなたを探すなら、止めません。それはあの子の意志だから」
お母さんは言った。
長く息子を愛してきて、愛されてこなくて、でも愛してきた人が。
オレより遥かに苦痛の中にいた人が。
深く愛する子供が、生きて傍にいるのに、いないのも同じだったのはどんな気持ちだったのか。
この人も。
アイツに世界を与えたいのだ。
アイツの家族も苦しんだのだ。
父親も母親も、心がないかのような息子を愛して報われず、でも愛して。
「手術の後、初めてあの子が私を視て、私に助けを求めたの」
お母さんは泣いた。
アイツは初めての世界に怯えているのだと
こんなにも世界に人がいることに怯えているのだと。
怯えるアイツの隣りにいてやりたかったけど、オレを忘れているのなら、恐怖でしかないだろう。
実感はなかったかもそれないけれど、知っている存在だった母親や父親のが安心出来るだろう。
オレは。
忘れられてしまった。
アイツの脳から消えてしまった。
それほ仕方ない仕方ないことで。
それはアイツの意志ではなくて。
だからオレはそれからアイツに会わなかった。
アイツは退院したら転校して。
オレを忘れたままだった。
そしてそれから10年後。
世界が終わったのだった。
ともだちにシェアしよう!