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誘拐 1

「少しは本気で口説かれてくれない?」 ヤクザが言った。 いつものように軽い口調で。 今日はエンジンオイルの交換とタイヤの交換に来てた。 作業中のオレの近くから離れない。 ここまではいつものこと。 でも、今日は笑ってなかった。 あ、これはヤバイなと思った。 出禁にすべきだな。 「出禁にする?」 見透かしたように言われた。 「しますね。今日で最後。二度と来ないで下さい」 オレはハッキリ言い切った。 「そうだな、通って口説くのはもう飽きた」 笑いを消してヤクザが言った。 ヤクザにしては甘すぎる顔立ちも、やさしげに見える微笑みも消えて、獣みたいな眼差しが光る。 ああ、ヤクザだな、と思った。 欲しいだけの男だ。 手に入れたいだけの。 「警察に行くだけです」 オレは言った。 そのための暴対法だろ。 「いいのか?なんで付きまとわれてんのかバレても。同性愛者のボクサーってのもバレるし、あんたの恋人にだってそれはマズイんじゃないのか?」 ヤクザは言った。 実にヤクザだ。 脅しに来てる。 おそらくオレとアイツの関係にも気付いてる。 調べたんだろ。 オレを尾行でもさせて。 脅しだ。 オレだけじゃなく、アイツにも迷惑がかかるぞ、と。 オレは笑った。 こんなの何の意味もない脅しだったからだ。 もう世界がおわるまで、半年すこしだ。 そこでどれほど叩かれたことろで、なんの問題がある? 全部終わるのに。 終わるから戻ってきたんだ、 「構わないよ。ばらしたければどうぞ。二度とオレに近付くな。今、やりかけている仕事は終わらせてやるよ。オイル入れてタイヤつけてやらないと出ていけないからな。でも、それで終わりだ」 オレの言葉にヤクザは奇妙な顔をした。 それが面白くて笑った。 どうせコイツも死ぬ。 おかげで大した感情も、このヤクザに持つ必要もなかった。 欲しいだけの男。 それだけで人生が終わるのだ。 可哀想に。 「・・・・・・あんた」 何か言いかけてヤクザは黙った。 その目がオレを測った。 よく分からないが、測量され、識別され、分析されていた。 ヤクザは首を傾げた。 納得いかないかのように。 でも、その日は大人しく帰っていった。 でも。 次の日オレを誘拐しやがった。

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