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第17話

「あの眠っている男、魔族の中でもなかなか高位のものだった。ダンタリオン、とは有名だろう」 「……ダンタリオン? そんなものが人間界に居るとは思えんが」 「僕だって思えなかった。だけど仕方ないだろう、彼の舌にはダンタリオンの印があった。彼らは幻覚を見せる悪魔だ。どのような手段かは分からないから、彼と同じ空気に触れただけでも警戒しておけよ」  それで隅々まで洗えと言われたのかと、魔王はようやく理解した。  ダンタリオンはいくつもの顔を持つ。老若男女、種族も問わずあらゆるものになれるために、他人にその存在を悟られる可能性は低い。魔王が気付かなかったのはきっと、魔王の力が半分になっているということと関係があるのかもしれない。 「しかしどうして小人とダンタリオンが?」 「手でも組んだんじゃないか? あるいは、小人たちも騙されたか、それこそ幻覚でも見せられているのか。どちらにせよ、あの悪魔がお前を手中におさめようとしていることに変わりはない」  魔王はもう、頭痛でもしてきそうだった。  何者かの手によって人間界に飛ばされた挙句、まさか悪魔に目をつけられてしまったとは。力も半分しかない今、下手に動けないのがもどかしい。本来の力さえあれば、悪魔の一人や二人、消失させることも容易いほどの力があったはずだった。 「それで、このまま逃げるか?」 「それが悩ましいところだな。今回あいつを調べたことで、あの悪魔が僕たちに正体がバレたと気付いたかもしれない。起きてきたら最悪だ。なにせあいつらは、人を操る力もある」 「俺様は人ではないが」 「僕は人だろ」  勇者が一度水に潜り、ふたたび水面から顔を出す。  水しぶきが散った。キラキラと反射したそれに目を細めた魔王は、勇者が髪の毛をかきあげる仕草にも見惚れていた。 「……僕が操られて、お前は大丈夫か?」  ほんの少し、トーンが落ちた。勇者が魔王を見つめる。その瞳は、いつになく真剣だ。  ――まさか、魔王の身を案じているのだろうか。  魔王の心が、ひっそりと跳ねる。なぜ嬉しいと思うのかは分からなかったが、期待していることは確かだった。  はて、期待、とは何に対してなのか。魔王にはやはり、それも分からなかった。 「勇者、貴様……」 「ほら、僕はこの通り天才だろ? 今回だって悪魔の存在に気付いたし、お前を冷静に守る判断力まであった。こんな僕が操られて敵になってしまったら、無知な魔王は人間界の片隅で死んでしまうんじゃないか?」  ――魔王はいったい、何を期待してしまったのか。  途端にうんざりと顔を歪めると、魔王は長く長くため息を吐き出す。 「どうした」 「貴様がどこまでも阿呆であることはよく分かった……」  いや、底抜けに楽天家、とも言うのか。 「それで、次はどうするつもりだ。このまま戻るのか、逃げるのか」 「……戻るのは危ないな、逃げたほうがいいだろう。この僕が『逃げる』などまったく不本意でならないが、魔術が使えない今の状況では仕方がない」  ダンタリオンはどのようにして相手に干渉するのかは明らかになっていない。何か特殊な物質を分泌しているのかもしれないし、何も使わずに直接脳に作用しているのかもしれない。何も分からないために、ダンタリオンともっとも近づいた勇者は、しっかりと体の隅々までを洗い流していた。  そうして、水から出るかと岸に上がったときだった。  黒い羽が一枚、ひらひらと勇者の前に舞い降りた。 「勇者!」  気付いた魔王がすぐさま駆け出す。水の抵抗のせいで、それは普段よりもうんと遅い。 「やはり、バレていたか」  勇者の前に降り立ったのは、先ほどまで眠っていたダンタリオンだった。黒く大きな翼を震わせて、余裕の笑みを浮かべている。  それはそれは、女にも思えるほどには整った容姿だ。垂れた目尻が色っぽく、勇者とはまた違った美しさがある。 「……な、ぜ、目を、」 「残念だったね、魔王アンセル」  ダンタリオンが、大きな翼で勇者を隠す。勇者は動かなかった。それには魔王も驚いて、あと少しというところで足を止めた。 「私の狙いは勇者だよ。|偽物の眠り姫が居れば《・・・・・・・・・・》、勇者は必ず足を止めると分かっていたからね。……だけど失敗。まさか魔封じを見破られるどころか、二人がキスをするような仲だったなんて」  ダンタリオンの手がするりと回り、軽々と勇者を抱き上げる。 「私は悪魔、ダンタリオンの種族、スレイグ。よろしくね」 「……そいつを離せ」 「面白い。あなたともあろうお方がずいぶんと慎重なことを言う。それほど、傷つけられたくない?」  スレイグに横抱きにされた勇者は、ぼんやりとした横顔をしていた。すでに操られているのか、幻覚を見ているのかは分からない。何にせよ、抵抗がないということが、魔王にとっては面白くなかった。 「……勇者をどうするつもりだ」 「さあ、どうするのかな。私にも分からない。……ひとまずあなたと引き離したかった。それだけだから」 「……俺様は地位に興味はない、魔王の名をくれてやる。そいつを返せ」 「私も地位には興味はないよ」  魔王が一歩踏み出した。それに同じほど後ずさると、スレイグは勇者に顔を近づける。 「やめろ!」 「魔王?」  勇者の声がして、魔王の動きが止まる。勇者は魔王を見ることもなく、目の前にいるスレイグを見て呟いた。もしかしたら、スレイグが魔王に見える幻覚でも見せられているのかもしれない。  スレイグの顔が近づくと、勇者の目が閉じていく。受け入れようとしている。相手が魔王と思ってその反応をすることに、喜べばいいのかも分からない。そうしてあっけなく二人の唇が引っ付くと、名残惜しさを残して離れた。 「なるほど、愛らしい人間だね。欲しがるのも分かるなぁ……それで、奪われる気分はどう?」 「……俺様が本気で怒る前に、そいつを置いていけ」 「それはできない。私にも事情があるんだよ。……それではお元気で。次に会うときには……そうだな。勇者は私の虜にでもなっているかもしれないね」  スレイグがふわりと空に浮かぶ。魔王には力が足りなくて、その場からスレイグがどこかに飛び立っていくのを見ていることしかできなかった。

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