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第22話

 低い声が降った。  あまりにも低く、それでいて凍てついた音だった。  瞬間、勇者の上から気配が消えた。ぼんやりとしていた勇者がしっかりと目を開くと、そこには先ほどまで居た魔王が居ない。そのかわりに、勇者から少し離れたところで、憤怒の形相の魔王が突っ立っていた。 「……あれ? 魔王?」 「貴様……この俺様が探しにきてやったというのに……」  魔王の視線が、シャツをはだけている勇者の体へと流れる。勇者はその視線の意味も察していない様子で、困惑しながらもふらりと起き上がった。  すると魔王の冷ややかな目は今度、湖へと向けられた。勇者がそれを追いかけると、黒い翼を広げたスレイグが湖の上で浮遊している姿がある。 「あと少しだったのに……残念だな」 「殺す」  魔王が踏み込んでも、スレイグは「怖い怖い」と呑気に笑う。  そこでようやく勇者の思考が回復した。同時に状況も理解する。少し前までスレイグと話していて、それからはなぜか魔王と一緒に居ると思っていたが、魔王がここに居てスレイグと対峙しているのを考えれば幻覚を見せられていたのは明らかである。 「魔王! 来てくれたのか!」 「貴様、これまであいつに尻尾を振っておきながらよくもそんなことが言えたな」 「尻尾など振っていないぞ」 「そうそう。私と彼は少し分かり合っただけ」 「分かり……ああそうだ。魔王、人間界で起きている僕たちの共謀説の、」 「そんなことはどうでもいい」  勇者が言い終わるより早く、大股に勇者に歩み寄った魔王が強引に勇者を引っ張り上げた。  怒っているのか表情は固い。勇者はそんな魔王に反応することもできず、されるがままに立ち上がったのだが。  次の瞬間には、ぶつかる勢いで唇が重なった。 「ん! む、」  性急に唇をこじ開けると、魔王の舌が勇者の口腔へとずるりと入り込む。乱暴な仕草だ。優しさもなく、犯されている感覚さえある。魔王の力は強く、勇者には離れることも許されなかった。  魔王の頭には血がのぼっていた。  どうしてかは分からない。遠い昔に忘れていたはずのその感情が、スレイグが勇者を押し倒して触れているのを見たときに爆発した。  勇者に触れているスレイグに苛立ったのか、抵抗もなく受け入れている勇者に腹が立ったのかも定かではない。どちらも正解であるようにも思えるし、けれど勇者に対する感情が荒れているから、もしかしたら後者なのかもしれない。  とにかく魔王は、スレイグの魔力を受けて目覚めた勇者に、ひどく暴力的な感情があった。 「ぅ、あ、魔王! まっ、ん」  息をする間も無く、顔をそらして逃げた勇者の唇を塞ぐ。柔らかで熱い口内を蹂躙するように激しく、押さえつけて、隅々まで味わう。舌を吸い上げれば勇者の腰が震えて、無意識なのかもっとと強請るように舌を絡めていた。  そうしてすっかり勇者の目尻が垂れた頃、魔王が一度軽くそこに吸い付くと、勇者はようやく解放された。うっとりとした視線が魔王を追いかける。それを抱きしめるように隠すと、魔王は変わらない鋭い目をスレイグへと向ける。 「見せつけたつもり? 逆に燃え上がると思わない?」 「目的は俺様か、勇者か」 「……さあ。私はどっちでも良かったんだよ別に。ただ……二人があんまり仲良しだから、引っ掻き回してやろうなんて意地悪なことを思ったのは確かだけどね」 「仲良しだと?」 「情熱的なキスをしておいてとぼけるんだから面白い」  情熱的と言われて、魔王ははたと気がついた。  そういえば今のキスは魔封じなんて関係がなかった。勇者は目が覚めていたし、きちんと会話もできていたから、ぼんやりとしていたわけでもない。  魔王は困惑しながらも、抱きしめていた勇者を見下ろす。少しだけ、居心地が悪かった。  ほんの少し距離が開いたからか、勇者も気付いたようにうっそりと魔王を仰いだ。頬がほんのり赤く染まり、やっぱり目尻は垂れている。 「……魔王?」  美しいと自負しているだけはあるのか、その姿はどこか妖艶にも見える。 「……ゆ、うしゃ……」  誘われるように、その唇に視線が落ちた。  どうしてキスをしてしまったのか。どうしてスレイグに、いや、勇者に腹が立ったのか。それよりも前、どうして魔王はわざわざ勇者のことを救おうと追いかけたのか。もっと前、それこそ先代魔王の旧友の元に向かうと決めたとき、眠り姫のことで立ち止まった勇者をどうして魔王は無理に引っ張らず、彼のペースに合わせたのか。  すべてが繋がっているような気がして、だけど関係ないようにも思える。  まったく不思議な感覚だった。勇者を見る目はこれまでと変わらないのに、見えていなかったものに突然気がついたような、当たり前のことであるかのようにその場にずっとあったものがようやく目に入ったなような、そんな感覚だ。 「……教えてあげようか。彼が好きなところ」  スレイグが勇者の背後に降り立つ。魔王からすれば正面であるために、すぐに勇者を抱き寄せるように庇って、魔力を込めた手で振り払った。  スレイグはそれを難なく避けて、余裕そうに笑っていた。 「面白いね、二人の関係」 「離れろ。それ以上近づいたら塵にするぞ」 「勘弁してよ」  クスクスと笑いながら、スレイグはふたたびふわりと浮かんだ。 「まあいっか、今回は引くよ。……二人を見てたら、我慢をしているのが馬鹿らしくなってきた」 「何の話だ」  魔王の問いかけには何も答えず、スレイグは微笑んだままでその場から消えた。

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