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第33話

「アンセル、待って!」  キョロキョロとしながら街を巡っていると、聞き慣れた声に呼び止められた。思ったとおり、振り向いた先にはどこか自信なさげなイリスが立っている。  気まずい空気が二人に流れる。小人はなんとなくそっぽを向いていた。 「……あ、今日は一人? あの人は?」 「……今、探しているところだ」 「そ、か……」  言葉を揺らして、静かに俯く。  かつての魔王は、そんなイリスの様子を見たならすぐに抱きしめていただろう。どうした、何があったと優しく聞いて、憂いの原因を取り除くことに必死になっていた。そのたびイリスは照れくさそうに笑って、だけどとても嬉しそうに魔王を抱きしめ返してくれる。  今も思い出せる、美しい時間だった。  その時間が愛おしかった。どうしてこんなことになったのかと、あの日に戻らないかと魔王はずっと願っていた。  しかし魔王が動くことはない。  その手はもうイリスを抱きしめないし、優しく声をかけることもなかった。 「……あの、謝って済むことじゃないけど、本当に、あのときはごめんなさい。言い訳にしかならないと思うから、理由なんか言わない。騙したのは事実だ。本当に、ごめんなさい」  震える声音を漏らしながら、イリスが深く頭を下げる。 「だけど信じてほしい。僕は本当にアンセルを愛してた。ずっと、本当に、心から好きだったよ」  イリスは素直で純粋で、恋人であったときにも、すべてを言葉に乗せて魔王に伝えてくれていた。  何があっても隠さない。嘘もつけないような青年である。だからこそ、騙されていたと思ったときには絶望も深かった。 (……家族を人質にとられていたと言っていたか)  スレイグの話が本当ならば、イリスもまた被害者である。  魔王の座を狙う何者かが手を引いたのか、ただ魔王の存在が邪魔だったのか、あるいは人間界との関係に亀裂でも入れたかったのか。思い当たるふしは多く、どれが正解とも言い切れない。  ともあれ、イリスばかりを責められる話ではないことは確かだ。  分かってはいても、受け入れられるかは別である。 「……俺様は、過去をなかったことにはできない」  魔王の言葉に、イリスは勢いよく頭をあげた。 「貴様のことももう信用はできない。何を言われても許せない」  何かを言いかけたイリスはしかし、すぐに口を閉じると、何も言わずに一つ頷く。 「……情けない話だがな。貴様を本気で愛していたからこそ、俺様は一生貴様を許さないだろう」  いつも通りに過ごしていた、いつもと変わらない一日だった。  それまで抱きしめ合い、愛を語り合っていたイリスが突然、魔王城に軍勢を送り込んできた。  魔王は状況についていけなかった。どうしてと、そんなことを聞き続けることしかできなかった。そんな魔王を見て、イリスが笑う。歪んだ表情だった。 「僕は、最初からアンセルのことなんか好きじゃなかったよ」  軍勢が魔王を襲う。本来なら魔王ほどの力があればどうにでも出来ただろう。けれどイリスに裏切られたという現実があまりにも重たくて、魔王は判断を遅らせてしまった。  ――魔王が完全に復活するまでに、長い時間が費やされた。  体はボロボロだった。虫の息で自身を治癒していたために、すぐに治せなかったのも無理はない。けれどそれ以上に心はもっと荒れていて、こちらは治癒魔法ではどうにもならなかった。 「貴様ともあろう者が……アンセル。我ならば貴様を一瞬で治せるぞ」  魔王の元に訪れた先代の言葉にも、魔王は頑なに拒否を示した。  魔王は一途だ。それゆえに、傷は想像以上に深かった。  魔王は、決してイリスを見ない。視界にも入れられないほどなのだろう。最初に逃げ出されたことを思えば、イリスの胸もおおいに痛む。  自業自得であることは分かっている。それでも感情はどうにも出来なくて、気がつけばイリスはすがるような言葉を吐いていた。 「あの人はいいの? ……あの人は、信用できる?」  それは、イリスの最後の希望でもあった。  この街で魔王と再会したとき、魔王は明らかに勇者に心を許しているようだった。遠目に見ても二人は恋人同士に見えていたから、二人がただのライバルだと勇者から明かされたときには意外に思えたほどである。  だからもし、勇者のことも「信用できない」と言ってくれたなら、まだ自分にも希望があるはずだ。魔王を諦めなくていい。頑張って押したらいい。  もしかしたらまた、恋人に戻れるかもしれない。 「……あいつは、そうだな。信用なんてできないな」  そう、思っていたのだけど。  ――魔王があまりにも優しい目をしてそう言うものだから、イリスは次の言葉を失ってしまった。 「あいつこそ、俺様の命を狙っているからな。最初からそうだった。ずっとくだらないことばかりを仕掛けては、いつも失敗して迷惑をかけて帰る。……騒がしいだけの男だ」  先ほどまでの苦い表情はどこにもない。魔王は勇者を思い出しているのか、口元すら緩めている。 「……そう。そう、なんだね……」  イリスの声を聞いて、魔王はようやく我に返った。  こんなところで勇者のことを語っている場合ではない。今は勇者を探すべきだと、その目的を思い出したのだ。 「行くぞ、小人」 「ひぎゃ! 唐突! 唐突すぎる!」  小人はずっと魔王の足元で気配を消していた。しかし魔王に抱えられてはどうにもできず、まるで荷物のように運ばれることしかできない。  魔王が駆け出す。イリスはそんな魔王の背中を見つめて、ぼんやりとつぶやく。 「……僕のために走ってくれたことなんかなかったのに」  魔王はいつも冷静だった。そんなところが、イリスも格好良く思えていた。  だけど今はまったく違う。まるで普通の人間のように必死になっている。  それでも昔よりも今のほうが格好いいと思えるのは、イリスがまだ魔王を愛しているからなのだろうか。  イリスは深くため息を吐くと、ぼんやりとしたまま歩き出す。行く当てなんかなかった。だけど前を向かなければならないなと、そんなことだけは漠然と思っていた。

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