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第3話 格の違い
午前の謁見の時間が終わると、ゐ号は軽い目眩を覚え、立ち止まった。
「どうした? ゐ号」
「いえ、別に……」
何でもありませんと返したゐ号だったが、再び視界がぐらついたので、不審に思った。
「顔色が優れぬようだが、どうかしたのではないか?」
「いえ……」
こんなことで、八尋の気を煩わせるわけにはいかない、とゐ号は歯を食いしばり首を横に振った。
昨夜は確かに寝ずの番であった。あの声を一晩中聞いて、夢にまで見そうで眠れなかったのだ。あれを思い出すと、なぜだか古傷が疼くように、身体の奥に漣が立つ気がする。自分が変えられてゆくようで、少し怖かった。
「……号。ゐ号」
「は……」
「どうした……?」
優しげな声が親しくかけられ、ぐらついたゐ号の意識は元へと戻った。これほど優れた王がこの世に存在するだろうか。これほど臣下を思いやる王がこの世のどこに、存在するだろうか。ゐ号は尊敬を込めた眼差しで八尋を一瞥したのち「何でもありません」と頭を下げた。
「顔色が悪いですよ。熱でもあるのでは?」
ちょうど八尋の仕事を手伝っていた八号が、ゐ号の不調を言い当てるように疑問を投げた。
「どれ」
「さ、触らな……、陛下の御手が汚れます」
八尋が額へ手を伸ばすと、ゐ号は首を竦めて後ずさった。戦場でさえこれほど臆病風に吹かれることはなかったが、八号が余計なことを言うからだと睨むと、にやにやと何かを見透かすように笑われた。
「かたいな、ゐ号は」
「かたくて結構です……っ」
揶揄に赤面し、八尋が歩を進める分、ゐ号が後退するのを、八号が見かねてゐ号の背後に回る。八尋と同じ「核」を持っているが、立ち居振る舞いの癖が全く異なるので区別できる。ゐ号は八尋に触れられるのを畏れるあまり、結果的に八号に身体を預ける形となった。
「離……っ」
「どれ」
八尋の両手がゐ号の肩に乗せられる。八号に羽交い締めにされ、目を閉じたゐ号が悲鳴に近い声を上げた。
「も、申し訳ありません……っ、鍛錬の疲れが出たのかもしれませんが、問題ありません……!」
「問題があるかどうかは俺が判断する。ゐ号、大人しくしろ」
「へ、へいか……っ」
無情にもそう言われ、八尋の顔が近づいてきて、額に額が付けられた。
「あ、あの……っ」
「ふむ」
動揺するゐ号を、まるで愛しげに稚児を抱くように、胸の中に引き寄せる八尋だった。八号は八尋に抱かれたゐ号の拘束を解くと、戯れるふたりを見て、腕を組む。
心臓が煩く鼓動し、ゐ号は立っていられなくなった。もう駄目だ、と目を瞑った刹那、不意に額が離れ、両手で頬を掴まれた。
「八号の言うとおり、少し熱があるようだな」
「わたくしの見立ては、まあ正しいかと存じます、陛下」
「うむ。ゐ号を今日の勤務から外すよう、伍条(ごじょう)に伝えよ、八号」
「御意」
伍条とは、親衛隊を束ねる隊長の名であった。条は隊長職の者が代々襲名する名の一部で、五代目なので、伍条と名乗っている。
「そんな……っ、熱など、あ、ありません。そのような……っ」
特別扱いなどいらぬ、と思う。
だが、八尋に心配され、嬉しさと面映い恥ずかしさがない交ぜになったあと、最後にゐ号は消沈した。自己管理がなっていないと言われたのと同義だ、と己を省みる。
「ゐ号は俺が触れるたびに動揺するのが新鮮でよい」
「へ、陛下……っ」
「代わりをよこすよう言ってくれ。交代させる」
「しかし……っ」
食い下がるゐ号に、八尋は優しげな眸の色を見せ、だがきっぱりと言った。
「遠征が近いのだ、ゐ号。我が命に従え。戦場で暴れるためにも、そなたは大事を取り、休め」
「は……」
八尋にそこまで言われては、ゐ号も黙るより他にない。
「頼りにしているぞ」
劣種は優種に睨まれると、動けなくなることがあるという。まるでゐ号は劣種になったかのように固まり、赤面した。
「わかり、ました……」
これが同じ優種であるにもかかわらずの、格の違いなのだと思い知る。王侯貴族を束ねる八尋こそ、この国の王に相応しい。ゐ号は思いを新たにし、八尋の元を辞した。
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