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第5話 孵化した雛鳥
何かをしていないと、この感覚に飲み込まれそうになる。
焦燥と混乱が頂点に達したゐ号は、朦朧と鏡を見つめた。そこには、発情に潤んだ目をして、唇を濡らした見知らぬ人物がいる。
(……こんな顔、誰にも見せられない)
どうにかするしかない。どうにか。
一刻の猶予もない衝動を、誰にも決して気づかれぬよう、抑え込むのだ。そう誓った傍から蘇ってくるのは、八尋の大きな掌と、高い額だった。あの人にかき回されたい。あの指で触れられたい。という、到底理解しがたい衝動が、ゐ号を襲う。
いやだ。
こんなの。
ゐ号は鏡の前でひとり煩悶しながら、ふと、今朝のことを思い出した。
ら号が持っていた青い小さな瓶。あれは抑制剤の小瓶だと言っていた。あの中身を飲めば、この正体不明の熱も緩和するのではないか。とっさにそう思いつくと、その考えを点検する余裕は、ゐ号にはもうなかった。
伽役の住む「奥」へ向かおう。
そう決意する。
とはいえ、「奥」は八尋以外の優種の出入りが禁じられている、いわば後宮である。見つかればただでは済まない。
だが、初めての突発発情に、ゐ号は半ば正常な判断ができなくなっていた。
内密に。
素早く。
「奥」に至るには親衛隊専用に整備された緊急用の北の隠し廊下をゆき、八尋の寝所を通り抜け、「奥」に繋がっている南の外廊下の扉を開けるしかない。伽役たちの部屋へたどり着けさえすれば、抑制剤を分けてもらえるはずだと踏んだゐ号は、決意するとすぐさま行動した。
人目を避けるために北の隠し廊下を通ることに、罪悪感がないわけではない。昼間でも湿り気のあるねばついた薄闇を纏った通路を通り抜け、出入り口に八尋の寝所の灯りが見えると、かすかな安堵とともに、ゐ号は「まかり通る無礼をお許しください……」と小声で囁いた。
しかし、南の廊下への扉に手をかけた時、ゐ号の背後から冷えた声がした。
「──そこで何をしている?」
鞘を剣が走り抜ける音がし、同時に、かぐわしい匂いがゐ号を包み込む。振り返ると、そこに八尋がいた。
「陛下……っ、なぜ、ここに……」
驚いたゐ号に八尋も驚いた様子だった。
鞘に剣を仕舞うと、気安いが猜疑の込められた表情で近づいてくる。
「それはこちらの台詞だ、ゐ号。危うく斬るところだったぞ」
八尋から甘く滴るような匂いが溢れるように香ってくる。気配に気づかぬほど動転していたのだと、ゐ号はその時になって己の浅はかさを省みた。
「いったい何をしている?」
よろけながら跪いたゐ号に、八尋は困惑した様子で尋ねた。
「……申し訳ございません」
「謝罪はよい。それより、どうしたのだ?」
「部屋を……間違いましてございます」
「間違えた?」
間違えるも何も、ゐ号が八尋の寝所に続く北の隠し廊下から出てきたのは紛れもない事実だ。
言い訳を考える間もなく、八尋の匂いが鼻腔をくすぐり流れ込んでくると、耐えがたいまでの衝動が湧き、ゐ号はそこに蹲らざるを得なかった。
「気分が優れません。失礼しても……よろしいでしょうか?」
「構わぬが……待て」
「っ」
「少し待て、ゐ号よ」
八尋は眉を寄せ、崩折れる寸前のゐ号の前に片膝をついた。湖の底のような双眸に見つめられ、ゐ号はぐらりと傾いた。
「この匂い……まさか」
八尋が手を伸ばすと、ゐ号は身を竦めた。
「陛下、何を……っ、離……っ」
「おい、暴れるな」
「いやです……っ、お離しください……っ」
乱れたゐ号の頤を八尋が持ち上げる。すると八尋の触れたところから、鞭で打たれたように甘い感覚が流れ込んできた。
「ぁ……」
「そなたからかぎ慣れぬ匂いがする」
「嘘です、そんなはず……っ、んぅ……っ」
ありません、と抵抗しようとするが、腰が砕けてへたり込んでしまう。
「はぁ……っ」
「ゐ号」
「ぁ……っ、ちが……っ」
零れる吐息が総じて信じられないほど甘い。鼓膜が捉えた八尋の声を否定したくて、ゐ号は首を横に振り続けた。
「発情の兆候がある者は、宮廷医に診せる決まりだ」
八尋が低く言う。ゐ号は己の状態を見抜かれ、混乱をきたした。
「ち、がい、ま……っ、ただ、気分が……っ」
「嘘を申すのか、この俺に」
「ちが……」
八尋に触れられている。その事実に、身体の底から悦びがこみ上げる。
「この俺が、劣種の匂いを間違うものか。しかも、強烈な……」
「と、伽役のいた部屋です。匂っても、おかしくないはず……」
「伽役の匂いはひとつ残らず記憶している。これはそのどれでもない。それとも、俺が間違うと言うか」
ゐ号は首を振り続けることしかできない。八尋に嘘も、真実も、告げられない。八尋はぐっと力を込めて手首を握ると、「確認する。こい」と命じた。
「へい、か……っ」
八尋はゐ号がへたり込んでいることに気づくと、ひょいとその腰を抱え上げ、肩に乗せて荷物のように運んだ。
「あ、ご、後生です……ご勘弁ください、陛下……っ!」
視界が突然反転し、恐慌状態に陥ったゐ号を寝台へどさりと下ろし、その上に八尋が覆いかぶさってくる。耳朶に、八尋の指先が触れるか触れないかの刺激とともに、ほとんど快楽と言ってよい衝撃が全身へと駆け抜けた。
「っ……」
「俺に無理矢理ひん剥かれるか、そなたが服を脱ぐか、選べ」
死刑宣告のような八尋の声が、ゐ号の耳元に届くと、甘い衝動に心がかき乱される。それでも震えていると、八尋は声を優しく抑えた。
「ゐ号。悪いようにはせぬ。この匂い……そなたが原因であろう」
窓辺からは昼の光が差し込み、八尋はそれを気にして、天蓋の布を半分閉じた。きらきらと太陽を漉した柔らかな輝きが己の身体にかかるのを、ゐ号は逆らうことなく許容することしかできない。
「陛下、後生でございます……お許しください……っ」
ただ哀願することしかできないゐ号を見下ろした八尋は、ゐ号の喉笛を覆っている濃紺に銀糸の織り込まれた衣服の首元を緩めた。パチリと音がして、首筋が露わになり、ゐ号はとっさに劣紋のある首の付け根を庇い押さえた。
「だめ……だめです……っ」
抵抗を返そうとするが、目上の者への遠慮から、強く出ることができない。意志の込められた八尋の視線に、心がばらばらになりそうなほど強く促され、望まぬ形を強いられる。
「これ以上、衣を検められたくなければ、脱げ。そなたに乱暴はしたくない」
「っぅ、……」
許可なく寝所へ入り込むなど、斬り捨てられても文句は言えない。こんな時でさえ、八尋がゐ号に信頼を寄せていてくれる事実に、ますます雁字搦めになった。
観念して軍装のボタンを上からふたつほど外すと、ぎゅっと強く目を閉じた。劣紋を見た八尋の眸の色を見るのが、おそろしかった。
「これは……」
首筋から鎖骨へかけて広がる、朱い印を見るべく、八尋が指先でゐ号の襟をかき分けた。空気に触れた途端、劣紋が熱を発したかのようになる。肌が粟立ち、屈辱に染まるゐ号の頬を指の腹でいたわるように撫で、しばし沈黙していた八尋がぽつりと呟いた。
「……雛が、孵ったか」
「ぅ……」
「発情したな? ゐ号」
確信を込めて囁かれ、ゐ号は目に涙を溜め、震えた。
「俺の可愛い雛鳥──」
ゐ号の滲む黒曜石の眸には、ただ八尋の姿のみが、次第に大きく、近く、映し出されていた──。
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