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第7話 焦り

 八尋とゐ号の間で問題が起きたことを知らぬ者は、王城内にはいなかったが、発情の熱から覚めたゐ号が最初に願い出たのは、隊への復帰と、八尋との関係の秘匿だった。  箝口令が敷かれ、誰も表立ってゐ号のことを口にする者はいない。が、それは公然の秘密となっただけのことであった。  ゐ号は抑制剤を限界量近くまで常用するようになった。宮廷医からは容量を守るようきつく言われたが、とてもそうできる状態ではなかった。 (──もう時間がない……)  八尋はうなじも劣紋も噛まなかった。代わりに身体の柔らかい場所へ、まるで甘えるように歯を立てた。八尋の強い自制により、ゐ号は未だ、つがいを持たぬ劣種だった。それは同時に誰のものにもなり得るということだ。優種ばかりの王城内で、劣種としていることがどれほど難しいか、想像のつかぬゐ号ではない。 「伍条隊長、少し、よろしいでしょうか」  報告に訪れた親衛隊詰所で、ゐ号は伍条を呼び止めた。ゐ号を片腕として引き抜いた伍条は、八尋が即位する前、先王時代からの古株のひとりだ。歳は不惑を過ぎた辺りで、左目から頬にかけて刀傷がある。親衛隊の伝統を重んじる立場から、ゐ号の入隊の時、八尋と強く揉めたと伝え聞いていたが、いざ入ってみれば、扱いも評価も、極めて誠実に行う人柄だった。  ゐ号が引き継ぎの終わった詰所で伍条に歩み寄ると、周囲の気配が伍条とゐ号に集中した。伍条は一瞥して衆目を散らすと「少し出てくる。あとを頼む」と傍らの者に伝えた。  伍条がゐ号と連れ立ち訪れたのは、王城内の温室だった。  秘密の話をする時に、伍条が決まって使う場所だった。色とりどりの花が冬でも美しく咲き乱れ、静かで、盗み聞きされる心配がない。入隊直後はとても頻繁に伍条とこの場所を訪れた。時に厳しく、時に優しさを滲ませ、辛抱強く伍条はゐ号を親衛隊隊員として教育してくれた。 「話というのは?」  温室の奥の湿気が多い場所までくると、伍条は単刀直入に切り出した。部下に対して腹芸を使わないところがいかにも武人らしく、ゐ号は好ましかった。 「隊を、辞したいと考えております」  だから、ゐ号もまた率直に言った。 「わたしには、やはり荷が重いと、やっと気付きました。陛下を支える立場にありながら、満足にその任を果たせておりません。自分の事ばかりにかまけて、陛下のお役に立てていない。隊員失格です」  ゐ号がそこで言葉を切ると、伍条は「ふむ」と相槌を打った。 「副隊長を代わるだけでなく、除隊したいと申すか」 「はい」 「辞めたあとはどうするつもりだ?」 「故郷へ……帰ろうかと」 「そうか」  伍条は頷いたきり、しばらく何も言わなかった。ここ数日のゐ号の動きを知っていながら、咎め立てしなかったのは、いずれこの日がくることを察知していたからだろう。 「陛下のもとを離れたい、ということか?」 「……はい」  本意ではなかったが、劣種に堕ちた以上、親衛隊へ籍を置く資格がない。当然、近日中にその適正を問われるはずだとゐ号は思っていた。だからゐ号は手足となり働いている他の隊員や同僚たちと、今更ながら横の連携を取ろうと模索していた。ゐ号が抜けたあとに誰が副隊長に抜擢されてもいいように、可能性のある者には、なるべく仕事を振るようにした。  ゐ号の突然の変化は薄気味悪がられたが、背に腹は代えられない。 「……親衛隊への入隊資格を覚えているか? ゐ号」 「はい。入隊試験の前に目を通しましたので」 「そこに「優種でなければならない」という一文はなかったはずだ」 「それは……」  虚を突かれたゐ号は、どう返答すべきか迷った。伍条は、ふと薔薇を見る横顔を晒し、気配をほどいた。 「あれは不文律の類でな。私がお前の入隊の件で陛下とぶつかった時に、懇々と諭された。優種であること、先代が親衛隊員であったこと、それらは考慮されるべきだが、入隊の必須条件であってはならない、と」 「陛下が……?」 「伝統を守るのは大切なことだが、時流に合わせて変えうるところは変えるべきだと、私も思う。お前を入れたのは半ば賭けのようなものであったが、結果は是と出た。……それでは不満か?」 「不満など、あろうはずがありません」  ゐ号は当然、除隊願いが受け入れられるだろうと思っていたため、細かな日程の調整まで先回りして用意していたが、あてが外れてしまった。 「ただ、わたくしでは陛下に相応しくないのです。ですから……」  動揺を表に出さずにいるのが難しい。  しかし、説得するには、伍条も当然承知しているだろう、ゐ号が劣種堕ちしたことを軸に話してゆくしかない。 「お前自身が変わったと仮定して……、陛下への忠誠心が変わったか?」 「いえ。変わっておりません。ですから、こうして……」 「私もそう思う。お前は変わっていない、と」 「伍条隊長……?」  伍条は剣の柄に親指を掛けると、滅多に見せない笑みを浮かべ「少し付き合え」とゐ号に背を向けた。

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