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第9話 優種というもの
伍条はああ言ったが、ゐ号は納得できずにいた。劣種堕ちがいつまでも八尋の傍で甘えていたのでは、他の者に示しがつかない。このことが外に漏れれば、派閥闘争を生む要因となり得る上、上意下達の今の体制に例外を生みかねない危険も孕んでいた。
子をなすことすらかなわぬ劣種堕ち。
そう言われることは、もう覚悟ができた。
しかし、八尋と特別な関係になってしまった以上、ゐ号の事情を知り利用する者が出る前に、王城を去る必要がある。
ゐ号の内心を慮っているのかいないのか、八尋は何も言ってこない。一方ゐ号は、いつ異動命令が出され、左遷されようとも、機が熟すればいつでも辞める覚悟を腹に据えつつ、雑務をこなす日々だった。
八号も、八尋とゐ号の間の微妙な空気に気づいたのだろう。何も言ってはこないが、眼差しが鋭くなった。普通に接されても、八号はともかく、八尋には視線ひとつ合わせられないでいるゐ号だった。
だが、仮にも親衛隊副隊長を務めるゐ号と国王の間に溝ができたことが公になるのはまずい。煩悶した結果、ゐ号は唇を見ることで、巧妙に八尋にだけわかる避け方をした。
もし、視線を合わせてしまったら、閨でのことを思い出してしまう。
そしたら、どんな時だろうと、自分がどうなってしまうか、わからなかった。
「ゐ号」
淡々と仕事の引き継ぎを終え、御前を去ろうとしたゐ号を呼び止めた八尋に、その夜、視線が集まるのは、ある意味、当然のことであった。
「人払いを」
八尋がそう命ずると、すべてを察したかのように、八号までが退出した。
これは異例のことだった。
執務室に、八尋とふたりきりになったゐ号は、この場に誰かが居合わせたら、すぐさま抜剣の上、ゐ号に対峙するだろうと思った。掌に冷や汗をかきながら、八尋に跪拝すると、ゐ号の後頭部に憂う声が降ってきた。
「伍条から申し送りがきた。ゐ号。そなたが、王城を去りたいと申していると。今日はそなたの意志を確かめるために呼び止めたのだ」
ゐ号は内心穏やかではなかったが、自分の不実を問われる時がきたのだと覚悟した。
「……わざわざお時間を割いていただき、恐縮にございます、陛下。わたくしの意志は変わりません。陛下の臣下には、優秀な者が多くおりますゆえ、劣種堕ちしたわたしの穴もすぐに埋められることと存じます」
臆病からくる保身だとしても、八尋を己のような劣種堕ちにかかわらせるわけにはいかない。伍条が取り計らってくれたならば、ちょうど良い機会だ。この際、宙ぶらりんになっている件について、伝えてしまい、ことが拗れる前に故郷の花街へ帰ろう、とゐ号は決意した。
しかし、ゐ号が切り出すと、八尋は立ち上がり、歩み寄ってきた。近くにくると、未だに身体が緊張する。
「──そなたには、悪いことをした」
「え……?」
ため息とともに零れた言葉に、ゐ号が思わず顔を上げると、八尋の脚が視界に入ってきた。
「立て、ゐ号」
「陛下、しかし、あの……」
「跪拝など不要だ。俺とそなたの間に、そんなものはいらぬ。ゐ号、俺を見ろ」
「っ……?」
同時に脇の下に近い腕の部分を掴まれ、引きずられるようにして立ち上がらされる。
「陛、下……」
「やっと、俺を見たな」
頭ひとつ分ほど高い位置にある八尋の、透明度の高い湖の底のような眸が、ゐ号の視界にまっすぐに入ってくる。間近に覗かれ、膝が震えるゐ号を支え、八尋は近くにある長椅子に腰掛けるよう促した。一瞬、何が起こったのか、ゐ号には理解できなかった。
「もっと相応しいやり方をすべきだったと、今は後悔している。謝罪させてくれ、ゐ号」
「謝罪など、そんな……っ」
頭を垂れようとする八尋に、慌ててゐ号が手を伸ばすと、八尋はその指を掴み、唇を当てた。哀切な表情に、ゐ号は己の軽率な振る舞いが、どれだけ八尋を傷つけていたかを悟った。
「動揺するそなたが可愛らしくて、つい無体を働いてしまった。他の者に奪われるぐらいならば、いっそわたしが、という想いからだった。そなたはそんな風に割り切れないだろうが、この愚か者の所業を許して欲しい」
「陛下……、もったいないお言葉にございます」
再び腰を上げようとするゐ号を押しとどめ、八尋はすぐ傍らに腰を下ろした。
「俺のしたことを、許してくれるか?」
許すも許さないも、ゐ号は覚えていた。それがたとえ、半分は、あの時、含まされた飴のせいだったとしても、意識が残った状態で欲したのはゐ号だ。
あれから、だいぶ経過するというのに、未だに身体が疼く。気を抜くと、あの悦楽に身を浸したくなってしまい、ゐ号はほとんど初めて、朝や夜、寝台の中で自身を慰める行為をしていた。
「あ、あの時は……互いに理性が働いていなかったのです。ですから、あの行為を忘れていただけるのであれば、わたくしは」
望むものなど何もない。ただ、八尋の傍にいさせてもらえるのであれば。それ以上を欲することはないと思ってきたが、そんな己を今はもう、制御できる自信がない。
「わたくしは、それで結構でございます。伍条隊長にも伝えましたとおり、わたくしには些か荷が重うございました。副隊長の任は誰か他の優種に……」
「ゐ号」
「?」
話がゐ号の辞職に及んだ途端、八尋に名を呼ばれ、ゐ号は顔を上げた。
「こちらへこい」
「陛下……?」
立ち上がった八尋に手を引かれ、身体が傾いたところを抱きしめられる。その瞬間、八尋の失望と落胆の表情が、ゐ号の眸を通して脳裏に刻まれた。ゐ号の背中に回した手を、まるで八尋は縋るように握り締める。
「そなたに嫌われたかと思うと、胸が痛んで仕方がなかった。八号と話しているのを見るたびに、心が灼けるようだった。あんな仕打ちを、もう二度としないでくれ、ゐ号」
「陛、下……っ」
八尋が願うことならば、何でもかなえてやりたい。
しかし、八尋の傍に劣種堕ちがいることだけは、駄目だった。
「……優種には、優種か、少なくとも普通の劣種が相応しいのです、陛下。劣種堕ちしたわたくしが親衛隊にいたのでは、兵の士気にかかわります。幸い、隊には優秀な人材が多数おりますゆえ、彼らにあとを任せても、大丈夫なように取り計らってございます」
八尋の傍を離れるのは無念であったが、八尋にも周囲にも、わかりやすい形で破局するのが、今のゐ号にできる唯一にして最大の貢献だった。
それがわからない王ではあるまい。
だが、八尋は滲んだ声でゐ号に縋った。
「……どうしてもか、ゐ号」
「……」
ゐ号はとっさに頷けなかった。そんな自分を心底呪うように、内心、叱りつける。手繰り寄せることがまだ可能な、細く拙い絆。その絆を自ら断ち切ることへの未練を、八尋のために棄てよう。
「──はい、陛下」
ゐ号は頷いた。
「これにて、お別れしとうございます。短い間でしたが、陛下にお仕えできたことは、わたくしの生涯の誇り、誉れでございます」
「ゐ号──」
「劣種堕ちなどに、余計な情は無用にございます。陛下は陛下の覇道をお進みください。わたくしは……」
極東遠征で命を散らすことも考えた。が、劣種堕ちした今、優種だった頃と同じように身体が動く保証はない。何より、己自信に言い訳をして、ずるずると最期を先延ばしにする可能性があった。それは卑怯だ。
ゐ号がそっと離れようとした時、八尋がその手首に苛立たしげな力を込め、握った。
「──先ほどから聞いていれば、優種だの、劣種だのと、馬鹿のひとつ覚えのように……」
苛立ちを含んだような声。
次の瞬間、ぐい、と手首を引かれ、八尋が声を上げる。
「八号! 八号いるか!」
「御前に」
「明日に備えて皆に休むよう伝えよ。俺はこやつと大事な話があるゆえ、邪魔の入らぬようにせよ!」
「御意」
「えっ」
そのまま力づくで手首を引かれ、ゐ号は八尋と歩かされた。王の寝室へと続く外廊下をゆく間、ゐ号は羞恥のあまり、顔を上げられなかった。
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