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第12話 閨房術

 八尋が伽役を呼ばなくなり、ひと月が経過した。  伽役が全く呼ばれる気配がないことが噂になりはじめ、それがゐ号の耳に入ったのは、それからさらに数日が経過した午後の遅い時間帯のことだった。  会議の終わった机上を片付けながら、つい息を吐くと、八号がゐ号のもとへ歩み寄ってきた。 「ずいぶん大きなため息ですね? ゐ号」 「八号……」  この影武者は好奇心が旺盛で、王城内の醜聞を集めるのを趣味のようにしていることをゐ号は思い出した。 「何か悩みごとがあるのなら、聞いて差し上げますよ? もちろん、ここだけの話です。たまには、このわたくしの好奇心を満たす手助けをしてくれませんか、ゐ号。心配ならば口止料も受け取ります」  呆れたゐ号が八号を仰ぎ見ると、柔らかな笑みを湛えていた。これほどうりふたつなのに、八尋から受ける印象と八号のそれとでは、まったく違った。  伽役が呼ばれなくなっても、守り番は回ってくる。八尋の就寝中に、万が一、賊が入り込むことを警戒してのことであるから、それはいい。問題は月に二度くる、ゐ号が守り番に就く夜のことだ。  伽役を呼ばなくなってから、ゐ号はこれまでに二度、守り番として夜勤をした。最初はそういう夜もあろうか、という程度の認識だったが、やがて八尋が静かな夜に、守り所の中へ顔を見せるようになり、情けないことにゐ号は初めて異変に気付いた。  八尋はそうして月に二度、ゐ号と静かな夜を過ごす。あの行為をするわけでもなく、ただ単純に雑談にもならぬ話をぽつりぽつりとするだけだった。ゐ号が持ち場を離れては、万一の事態に対処できないし、かと言って他の守り番に持ち場を任せ、八尋に抱かれることは、ゐ号には耐え難かった。  そうして最後に身体を繋げてから、気づけばひと月以上が経過していた。互いに気持ちはあるはずなのに、機会が訪れず、すれ違ったまま、極東遠征への期日だけが迫りつつある。  これはまったく予期せぬことで、どう対応したものか、ゐ号は戸惑いを隠せなかった。自分ひとりのことならば、ひとりで処理すればいいだけだ。しかし、八尋が伽役も呼ばずにいるのに、その誠意に上手く応えられないことが、ゐ号にはもどかしかった。  ゐ号と繋がる前までは、あれほど頻繁に伽役を呼んでいた八尋だ。熱を、持て余したりはしないのだろうか。それとも、この衝動は自分だけのものなのだろうか、とゐ号は酷く悩んでいた。 「あなた自身は、どうしたいのですか?」  ゐ号が恥じ入りながら経緯を簡単に説明すると、八号は促した。ゐ号は少し沈黙したのちに、ほとんど初めて、他者に対して素直に自分の気持ちを口にした。 「陛下が禁欲される動機が、わたしでなければいいと思う。わたしは……あの方のために本当になっているのだろうか? 邪魔な存在になっていなければいいと……そう願っている」  だが、実際はおそらく違うのだ。 「八号。あなたの目から見て、陛下は、どう映っているのだろう? その……お気を悪くされたり、お身体を悪くされていたりはしないだろうか? それが心配なのです。もしもわたしとの間のことが原因で、何か変化がおありなら……」 「……わたしの見立てを知りたいですか?」  八尋と同じ顔が、ゐ号を弄ぶように眼を細める。八尋とそっくりの視線を間近に送られるだけで、ゐ号はあれをした夜を思い出した。 「知りたい。教えてください」 「正直にお答えすると、このままでは極東遠征に影響が出るでしょうね」 「えっ……?」 「あの方の自制心は大したものですが、あなたがいると、その姿を目で追ってばかりで。執務に影響が出はじめています。このまま遠征に旅立たせるのは、わたしとしては、些か不安です」  八号の言葉に、ゐ号は血の気が引いてゆくのを感じた。 「いかに陛下といえど、ひとりの男性に違いありません。あまり無理をさせるのは、如何なものかとわたしは思いますよ。陛下に影響が出れば、わたくしの仕事にも影響しますし」  八号、という名前は、今まで八尋の代わりにあの世へ送られた者が七体いることを示す数字でもある。常に死と隣り合わせであるだけ、現世への執着が強いのだろう。 「わたしは……どうすれば」  八尋の意志を優先させれば、規律を乱すことになる。そう考え、今まで自制してきたつもりだった。  しかし、同じ情熱を八尋が耐え忍んでいるとしたら……。八尋がそこまでしてゐ号の気持ちを尊重してくれることに、戸惑いと幸福を感じる己を、ゐ号は持て余した。 「強いられるのが嫌ならば、今のままでよろしいのでは?」 「嫌であれば、どれだけ……」  迷惑だと切り捨てられれば、どんなに楽か。  だが、そうではないのだ。 「わたしは陛下のお荷物になりたくない。劣種堕ちには陛下をお支えするのは無理なのでしょうか? 価値などないに等しいのに、ある振りをしている自分を情けなく感じます」  俯くゐ号に、八号は嫣然と笑ってみせた。 「ゐ号。ないなら、付加すればよいのです」 「付加、する……? 価値をですか?」  日々の鍛錬は欠かすことなく続けている。劣種堕ちを理由に、腕が落ちたと言われることも、今日まではなかった。だが、秀才が揃う親衛隊で、一朝一夕に価値など付けられるものだろうか。 「簡単なことですよ。あなたが望むなら、閨房術をお教えします」 「……っ」 「誤解しないでください。ゐ号を侮って言っているわけではありません」 「わかっています」  ゐ号は思わず赤面した。  八号は、伽役の調整係も務める。いきなり本番に臨み、へまをしないよう、入念な用意をするのだと聞いていた。確かに、劣種にとって閨事こそが本職なのかもしれない。だとすれば、閨房術を学ぶというのは、正しい努力なのかもしれない。  城を去る選択肢は、八尋にも伍条にも拒まれた。副隊長を辞することも、また然りだ。ならば、城内で劣種として生き残る道を模索するのが、正しいあり方なのかもしれない。 「陛下の、お役に立てるのであれば……」  劣種堕ちした以上、八尋以外の誰かに身体を許すという、そういう選択肢もあるのだ、とゐ号は悟った。  しかし、ゐ号が検討する旨を八号に伝えようとした時、いきなり横から手が伸びてきて、ゐ号を遮った。 「駄目だ」 「陛下……っ、いつから……」 「そなたの悩みを八号が聞こうと申し出たところからだ」 「っ」  ゐ号が驚き、赤面しながら八号とともに膝を折ろうとすると、腕を引かれ、立たされる。 「八号……!」 「はい、陛下」 「これは俺のだ。手出しをするな。出せばお前でもただでは捨て置かぬ」 「は……」 「書類はこのままでよい。どうせ明日も散らかるのだ。ご苦労だった。皆とともに、よく休め、八号。ゐ号、そなたには、少し話がある」  八号が一礼し、退出するのを見届けると、八尋はおもむろにゐ号に向き直った。

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