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第13話 極東遠征

「閨房術など不要だ、ゐ号」  八尋は率直だった。八号との明け透けな会話を聞かれていたのだと思うと、ゐ号は恥ずかしさに全身が火照った。 「あ、あれは……戯れに申したことで……」 「戯れに閨の話をするほど八号とは打ち解けているのに、俺とは肝心の話をせぬのか」 「それは……」  八尋は滲んだ声を向けた。反論できずにゐ号が俯くと、八尋は額に片手をやって溜め息をついた。 「いや……すまない。そなたに当たったところで、解決する問題でないことは、わかっている。だが、これは俺が好きでしていることだ。八号の指図は受けぬ」  八尋は人払いもせずに言ったが、八号が退出したことで、今は事実上ふたりきりと言ってよかった。 「そなたの気持ちを聞く前に、俺の心をはっきりさせておく。俺はそなたが好きだ」 「っ」  弾かれたように顔を上げると、八尋の苦しげな眸とぶつかった。 「やっと、俺を見たな、ゐ号」  その眸が眩しげに細められた。 「こうしていると、惹かれる。惹かれ合っていると思ってしまいたくなるほどに」 「陛下……」 「正直、今はそなたの匂いが微かでもすると、存在を追ってしまう。俺が王位にいなければ、そなたともっと親しくできたのかもしれぬとすら、考えてしまう」  八尋がそっと手を伸ばし、ゐ号の頬に触れた。動作によって空気がふわりと動き、ほんのかすかな刺激のはずなのに、膝が崩れてしまいそうになる。 「陛下……その、これ以上、は……」 「これ以上は、身体が反応するか……?」  八尋の表情を見て、ゐ号だけがそうではないのだと、悟る。 「わ、かって、いらっしゃるのでしたら……」 「劣種だからという理由で、己を蔑むのは止せ。ゐ号」  八尋は強く命じるとともに、ゐ号を傍へと引き寄せた。 「どれほど否定しようと、そなたが劣種であることは事実だ。それを受け入れよとは言わぬ。人には器というものがある。だが、俺は四年前にそなたをひと目見た時から、この髪を美しいと思い、その眼差しの虜になった。そなたを妓楼より連れ帰ったのは、決して気まぐれなどではない。伽役たちとの夜に、どれほどそなたを夢に見たか。どれほど欲したか、想像もつくまい。そなたに初めて触れた夜、どれほど満たされたか。そなたはきっと、知りもしないであろう、ゐ号」  言葉を切った八尋は指先でゐ号の頤を上げる。視界いっぱいに広がる八尋の湖の底のような透明度の高い眸。これほど美しいものを、見たことがない。これほど気高いものを拒める勇気が、ゐ号にはなかった。 「俺が、嫌いか? そなたの人生を曲げてしまった俺を、恨んでいるか……?」  囁くように、慟哭する。  次期国王として、強引にゐ号を王城に連れてきたことを、八尋は後悔しているのだろうか。だとしたら、それはまったくの誤解だと伝えたい。 「そのようなこと、あろうはずが……。陛下を前に、はしたないほど乱れたのはわたしの方です。わたしは愚かにも、陛下に、その、ね、ねだるような真似を……」  美しい姿をこそ、八尋に知っておいてもらいたかった。期待に沿わぬ姿など、晒したくはなかった。今のゐ号は美しくも正しくもない。それでも王は、欲するのだろうか。 「そなたのせいではない。俺もまた同じなのだ。そなたに幾度も求めたのは、俺の方なのだ。──すずめ」 「──っ」  互いの吐息が熱を帯びて重なりそうになる。まだ花街にいた頃、戯れに呼ばれていた仮の名を、八尋が覚えていてくれたことに、ゐ号は御し難い興奮を覚えた。  だが、そんな己の劣情を、八尋に晒す勇気が、まだゐ号にはなかった。 「劣紋持ちなど、捨て置いてくだされば良かったのに……。本来ならば、口を利くことすら許されない身分なのです。それを、わたくしは……」 「止せ、すずめ。そなたの美しさは、完璧さの中にあるのではない。正しくあろうとするそなたの姿勢が、胸を打つのだ。そなたが望むのなら、幾らでも俺が教えよう。だが、伽役の使う閨房術などそなたには不要だ。そなたが何度、願いを口にしたか、知っているのは俺だけでよい。どの体位でいつ達したかも、あれを飲ませたことも、何度もそなたを──……」  開けっぴろげな言葉が零れ出したことに驚いて、ゐ号は思わず両手で八尋の口を塞いだ。頬が火を噴いたように火照る。 「お、それながら……、それ以上は、お許しください……」  閨でのことに具体的に触れられて、羞恥のあまり死んでしまいたくなる。情けない顔をどうにか八尋の視界から消そうと、ゐ号は狼狽し、身を竦ませた。 「……そうだな。そなたは何度も慈悲を乞うたな。だがな、すずめよ。俺は、そなたを愛している」  四年前、妓楼の裏庭で八尋と出会った。花魁たちの下帯の洗濯中に、客が迷い込んできたようだ、という認識しか最初はなかった。それまで正式な名も与えられず、ただ囀るようにものを食べるので、すずめと呼ばれていた。  あの時を覚えていたのは、ゐ号だけではなかったのだ。心の奥から愉楽に似た、わけのわからない衝動が滲んで、じわりと視界がぼやける。  八尋はゐ号の左手を取り、そっと薬指の根元に口づけた。 「この時のために、すべては約束されていたのだと、今は思う。この時のためだけに、俺は存在しているのだと。……そなたと、つがいになりたい。すずめ」  その瞬間、悦びの風がゐ号の体内を吹き抜けた。 「そなたの偽らざる気持ちを聞かせてくれ。受け入れる覚悟はできている」 「わ、たくし、は……」  触れられた手を、八尋の指ごと握る。視界がきらきらと輝き、目眩に襲われた脚を踏ん張る。 「陛下に……捧げとうございます。身も、心も、我が生涯も、魂も、すべて……」  八尋の前に片膝を付き、ゐ号は頭を下げた。床に垂れたマントの裾に、そっと手を差し伸べ、震える手でそれに触れる。 「お慕い申し上げておりました。初めて、お会いした時からずっと……」  震える声でみっともなく喋るゐ号に、八尋はふと泣きそうな顔をした。宵の鐘が鳴り、外では兵士たちの野戦訓練がはじまろうとしている。 「よいのか、すずめ」 「はい……、はい、陛下」  頷くゐ号のうなじをそっと撫で、八尋は引き寄せると腕に抱いた。 「……遠征が終わったら、そなたと正式につがう儀式をする。必ず、生きて帰れ」  遠く、練兵場で鍛錬中の兵士たちの、鬨の声が上がる。  ゐ号はこの身の幸せを、ただ噛み締めていた。

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