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第16話 馬鹿

 先々代の国王の時代から改築が繰り返された王城には、様々な死角がある。その死角を有効活用するために、室内の一角に剣術指南所が設けられていることは、普段、王城内へ勤務する者ならば、だいたい知っている。 「王城内での私闘は禁じられています」  木刀を朱雀がゐ号に渡すと、ずしりとその重さが、ことの重大さを示すようだった。 「私闘だなんて、そんな大それたものではありません。ここは剣術指南所。あなたの剣筋を見させてもらうだけですよ」 「……」  指南所は王城内の東西南北にあり、各指南所は四天将軍の管轄だった。だが、朱雀らが訪れたのは、青龍将軍が担当していた東指南所だった。喪に服する期間中、扉に墨染色のリボンが垂らされている。生き残った四天将軍らが扉を押し、しんとした雰囲気の指南所へ、ゐ号を促し、入ってゆく。  木刀を渡され、ゐ号は腹を決めた。きっと、八尋に手を上げたことを叱るつもりなのだろう。私刑に処されるのは初めてだったが、八尋がゐ号との間の問題を歯牙にもかけなかったことから、いずれこうなることは覚悟できていた。  朱雀は炎のような髪をした柔らかな雰囲気の男だが、青龍と同期だ。ゐ号が渡された木刀を構えると、朱雀がばっと踏み込んできた。 「手加減はなしです……!」  そう言いながら振り下ろされた木刀を弾くと、真剣の時とはまた異なる衝撃があった。朱雀の剣筋はふらりと寄り、鋭く突くものだった。力押ししてくる青龍や玄武とは、また違った恐ろしさがある。ゐ号は最低限の防備をしながら、じりじりと後ろに下がらざるを得なかった。 「多少陛下に気に入られているからといって、先日のあれは何です、ゐ号よ……!」  朱雀は木刀を振りながら、口を開いた。白虎と玄武は手出しをせずに、二人の打ち合いを見守っている。 「陛下に手を上げるなど、増長ぶりも甚だしい! その上、あなたは盾となる身でありながら、よりによって陛下を盾にした……!」  朱雀は攻撃の手を緩めぬまま、口でもゐ号の痛いところを突いてきた。 「く……っ」 「そら、手元がお留守ですよっ、ゐ号! 陛下も陛下だ! 色にかまける悪趣味とはまさにこのこと……! ああなってしまわれたからには、あなたともども一度、沈む泥舟に身を任せねば、正気を取り戻しようがないかもしれませんね……!」  言いながら、ゐ号を突いてくる。まるで弓のように自由自在に曲がる剣筋だった。みるみる壁際に追い詰められ、逃げ場がなくなる。 「何の、話を……っ!」 「とぼけずともよい! あんな凡庸な王など、裏から操れるとでも考えているのでしょう……!」  違う。そんなつもりは毛頭ない。  ゐ号は防戦一方になりながら、朱雀の剣戟にわずかな隙を見つけた。きっと、わかってやっているのだ。言外に朱雀に飛び込めと言われ、ゐ号は頭に血が上った。 「せい!」  声と一緒に朱雀が飛び出した時、その木刀の切っ先が鎖骨の下に当たった。一瞬、息ができなくなり、鈍い痛みがゐ号を襲う。ゐ号は木刀を取り落とすと、追い込まれた壁際に、丸腰のまま背中をぶつけたが、もう左右のどちらにも逃げなかった。 「……何のつもりですか、ゐ号?」  朱雀から放たれた突きが壁を抉る。それだけでは気が済まないのか、墨染色のリボンを付けた袖を払い、朱雀はすらりと腰の剣を抜いた。左翼前衛を任されるだけのことはある、見事な所作だった。  八尋に勝るとも劣らぬ長身の朱雀は、抜き去った切っ先をゐ号の襟元に向けた。ほんの少し力を入れれば、襟ごとゐ号を八つ裂きにできる位置で、刃を止める。その切っ先を前に、ゐ号は少しも後退しなかった。ぎっと己を追い詰めた朱雀を、ゐ号は睨んだ。 「……朱雀将軍。わたしを貶める発言は、百歩譲って受け入れましょう。しかし、陛下を侮辱したことは謝罪していただきたい。あの方に害をなすなら、たとえあなたでも斬ります」 「はっ、丸腰で何を斬るのやら。あなたには同士討ちは無理だと、伍条も言っていましたよ」 「わたしの命は陛下のものです。あの方のゆく道の露払いならば、それが地獄への道行きだったとしても、喜んでつとめます。仮に、陛下の望んだ船が泥舟だとして、それがいったい何だと言うのですか。望まれるのなら、ともに乗ります。ありえないことですが、たとえそれが沈んだとしても、わたしは本望です」 「何を──……」  朱雀が目を眇め、顎を引いた。ゐ号はそれ以上、壁際に下がらず、前へと一歩を踏み出した。途端にブツリと音がして、襟留めが裂ける。朱雀の剣先が、ゐ号が前へ出た分、押し返され、引かれる。 「あなたを斬ろうとしているのは、私なのですよ、ゐ号……!」 「どうぞお斬りください。わたくしは陛下に手を上げました。不敬罪で裁かれてもおかしくない身。陛下の恩寵により、今日まで永らえてきましたが、命をお返しする日がきたのなら、それに従うまでのこと──」 「っ……!」  朱雀の剣の切っ先が、微妙にぶれた。  それがゐ号の襟を分けるように裂き、劣紋が露わになる。その時、朱雀が息を呑む音が聞こえた気がした。 「──劣紋……っ」  朱雀の声が歪むと同時に、その剣の先が歪み、ゐ号の肌をぶつりと傷つけた。鎖骨のくぼみから肩へかけて、朱い痕が刻まれ、ついに朱雀が剣を引いた。 「あなたは──馬鹿なのか」  真剣を構える朱雀に丸腰で歩み寄るなど、命を粗末にしているとしか思えない。そう零す朱雀に、ゐ号は、ずっと抱えてきた葛藤を晒した。 「わたしとて、これを抉り消せるのであれば、とっくの昔にそうしています。でも……これを削ったところで、劣種堕ちした事実は変わらない。陛下にそう諭されました。劣種に拘り過ぎていたわたしは、間違っていたのだと思います。そんな陛下を残して、どうして船を降りられるでしょうか?」  朱雀は何かをじっと考えているようだった。が、やがて剣の切っ先を下ろし、短くため息をついた。 「本当に我らの乗るのが泥舟だったら、どうするつもりなのです、ゐ号?」 「──ともに堕ちます」  ゐ号の言葉に、朱雀は目を瞠った。 「は……?」 「わたしは盲目の馬です。陛下が進めと仰れば、そこが崖下だろうと、地獄の釜の中だろうと、踏み出す他に、恩を返せる方法を知りません。陛下はわたくしを花街から拾い上げてくださった。だからです」 「ふ……はは、あははは……、今上陛下と心中すると申すか!」  吹き出した朱雀の言葉に、ゐ号は誤解されたことを悟って肩をいからせた。 「なっ、ちがっ……! べ、別に……っ、わたくしを踏み台にされて、陛下が生き残ればそれでいいという話をしているのです……っ、心中など、お、畏れ多い……っ」  途端に顔を朱く染めたゐ号に、朱雀は抜剣した時と同じように、すらりと剣を鞘におさめた。 「そ、それに……っ、あの方は賢王であらせられます! 間違うことなどそもそもあるはずが……っ」 「ふふっ、これは痛快。劣種堕ちとはこういうものか……いや」  ひとしきり声を上げて笑った朱雀は、今度はゐ号に向けて人の悪い笑みを見せた。 「それほどあの方を好いているのか」 「べっ、別に! ちがいま……っ、いや、そう、ですが、その、それと、これとは……っ」  ゐ号は真っ赤になってむきになる己を制御できなかった。そんな、八尋と死後もともにあろうなどという大それた願いを、つい口にしてしまった己の愚かさが、情けなく恥ずかしかったのである。 「だっ、だいたい、陛下が間違うことなど、仮定としてもおかしいではありませんか……っ。わ、わたくしが間違うのなら、わかります。ですが……っ」 「ああ、もういいです。わかりました、ゐ号。あなたはなかなか頑固で融通の利かない男だ。さすが陛下に手を上げるだけのことはありますね」 「そ、それは……っ」  あたふたと己の所業を反省しようとしたゐ号を餌に、揶揄する朱雀は、今度はにやにやと人の悪い笑みを浮かべた。 「──まったく、こんな馬鹿は見たことがありません。わたしの本気の殺気に、斬られようとするような馬鹿は」 「ばっ……」  馬鹿呼ばわりされたゐ号が呆気にとられるその頭上から、どっと笑い声がした。いつの間にやら集まったのか、衆目が朱雀とゐ号のやり取りを見物している。衛兵らをはじめ、王城で働く者たちまでが、ゐ号を笑っていることに気づき、耳が朱く染まった。 「あなたが陛下とぎくしゃくするので、兵たちの間に不安が広がっているのですよ。まあ、先ほどのは厄落としだと思ってください。これだけ馬鹿なら、謀反に利用される前に、舌を噛み切って自決しそうだ」  朱雀が喋るたびに、頭上に笑い声が満ちる。ゐ号があたふたと身を竦ませると、剣術指南所の扉を開けて、伍条が入ってきた。 「それぐらいにしておいてくれまいか、朱雀将軍。ゐ号が混乱している」 「ふふ……あなたは少しこの青年を甘やかし過ぎなのでは? 腹芸のひとつも覚えさせた方がいいですよ」 「それについては耳が痛い」 「な……、ど……っ」  何がどうなっているのかわからず狼狽するゐ号に、朱雀は損な役回りを演じたとばかりに首を振った。 「さっさと陛下と仲直りしてしまいなさい、ゐ号。それが今、最も中王国に必要なことですよ」 「は……?」  話が飲み込めずにいると、五条が耳打ちした。 「察しの悪さは相変わらずだな。朱雀将軍はお前を試したのだ。まあ、途中までは、普通に私刑に処する気でいたようだが……」 「当たり前です。本気でやらずに何の芝居ですか。恥ずかしい」  伍条と朱雀の言葉に、ゐ号は自分が試されたのだと知った。いたずらに衆目を集めたことに真っ赤になっているゐ号へ、朱雀は人の悪い笑みを向けた。 「すっかり仕事の邪魔をしてしまいましたね。ゐ号、命じましたよ。仲直りなさい。皆も、励みなさい。ゐ号に負けぬように」 「では、我々はこれにて」 「行くか。腹が減った」 「何です二人とも。わたしに任せっきりで情けない。まったく、痴話喧嘩を見せつけられるこちらの身にも、たまにはなって欲しいものです」  東指南所を去りゆく四天将軍に続き、伍条もまた苦笑を残して去っていった。彼らの背中を目にしたゐ号は、どんな顔をしたらいいか、最早、わからなくなっていた。 (仲直り)  まるで幼児のそれではないか、と思えど、確かに朱雀や伍条の言うとおり、八尋との仲がこじれてしまっているのは事実だった。  あれから、八尋がゐ号に視線を送ることはあれど、声をかけてくることはない。どこか深い哀しみを湛えた眼差しで、途方に暮れてでもいるように見受けられた。  もしかすると、遠征以来、ゐ号への興味が薄れたのだろうか。そう案じ、胸の痛みを誤魔化すようにして、ゐ号は真実を確かめられずにいた。臆病風に吹かれたのだ。  しかし、たとえ耐え難い事実があろうとも、もう八尋を避けるのは止めるべきなのだろう。  八尋に手を上げた瞬間の衝撃を、未だゐ号の掌は覚えている。その手で、どう八尋に手を伸ばせばよいのだろうか──と、ゐ号は考えた。

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